たしかぼくが小学校三、四年のころでしたか、子飼橋のうえ
で、母が急に思いついたように言いました。
「あれ!あんたこの前の、、曜日が誕生日じゃなかったね?」
「あっ!そういや九月十日がそぎゃんだったたい」。
「九月十日・・?うんにゃ、十一日のはずバイ、こん前、役
所でもろた謄本にそぎゃン書いてあったよ」。
「ばってん、母ちゃん、僕あずっと九月十日がぼくん生まれ
た日て、思うとったよ」。
「そぎゃんね、そら知らんかったばい。何日かおくれたバッ
テン、お祝いに回転饅頭でん買って食べようか」。
もちろんぼくは大喜びで、橋をわたりきって、熊本大学の方
向に右折してすぐの店で回転饅頭を買ってもらい、公園のベ
ンチで分けあって食べました。なつかしい思い出。それ以外
ハッピーバースデイのおぼえはありません。
大きなケーキを買ってきて、誕生日の数だけのローソクを
立てて、電気を消して、吹き消して、消えると電気をつけて
みんなで、誕生日オメデトーなんて、どこか遠い国の話でし
かありませんでした。
思わぬことで誕生日が一日早まったわけですが、だからとい
って九月十一日が正しい日付、つまりその日に本当にぼくが
生まれたのかどうかは別問題なのです。
ぼくが生まれたのは昭和24年(1949)、戦後の産めや増やせ
よの、第一次ベビーブームのまっただ中でした。
野球やサッカーのチームだってつくれるような子沢山の家が
そこらじゅうにあふれていました。
ネズミ算ばりの出産率で、列島がこのままでは人々々で溢れ
てしまのうではないかと半ばマジに心配されていたくらいだ
ったのです。今となっては笑い話ですが。
そういう事情ですから、逆に少子化が頭痛の種の今とは打っ
て変わって、子ども達がうるさいくらいに群がっていたので
した。ですから当然一人当たりの重みが全然ちがっていま
した。重みが違うと親が我が子に注ぐことのできる、(愛
情はともかくとして)エネルギー量はとても控えめになるわ
けです。
親はなくとも子は育つ、なんて、だいぶマジで言われていま
したし、まあ、三度三度のご飯を食べかせておけば、親の務
めは果たせたような時代でした。塾通いなんてトンデモナイ
話ですから、今の子供たちからすれば夢のような時代だった
かもしれません。
今では出産は一族郎党の祝事ですが、当時はまあ六人目辺
りになると、
「あっ、しもた、とーちゃん、またできたごたる」。
「そぎゃんや、出来たもん仕方がなかたい」。
、、、ってなふうで、仕方んなか、で産まれちゃった子があ
っちにもこっちにもいたのでした。
そういう子には留男とか末子とかいう、本音まるだしの命名
がされるので、すぐ分かります。
そういう名前をつけられた子どもこそいい面の皮で、友達か
らは、あいつはオマケだとかハズレだとか、面白半分にから
かわれたものです。
ぼくは三男坊で、成治(しげはる)だから、成功して治める
という。よく言えば、精一杯の親の願望がこもってはいるよ
うですが、考えようによっては、打ち止めのサインでもあり
えます。その後の育児の、教育の、手抜きまるだしの様を眺
めるにつけ、やっぱりなという印象は否めません。
そんな子が親になったらどうなるか、というと、どうも二つ
にわかれるようです。自分の親の真似をする奴と、しない奴。
僕は典型的な前者の部類に属していたようです。
親の子に託す夢なんて、期待を裏切るためにあるようなもん
だから、いい加減でいいだろうと長男に鉄平(てっちゃん)
と命名としようとしたら、そんなマンガ見たいなのやめろ、
って妻の親父に叱られました。なんせ待望の初孫でしたから。
それで喜んで親父にお任せしました。
役場の謄本に生年月日が9月11日になっていたからといって、
その日に本当に生まれたかは別問題と書きましたが、それは
役場への届出制だったからです。
いまも出生届は出しますが、医者の証明書が必要です。あの
ころは届け出た日が出生日になったのです。だから親の気まぐ
れで2,3ヶ月の誤差はかる~く出てきました。
さて、母が結婚相談所をはじめた52年前といえば、そんな団
塊の世代が結婚適齢期にさしかかろうか、というころでした。
(続く)
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