「今日に勝る明日はない」
There is sure to be no days better than this day.
偶然ひらいた本のページにそう書いてあった。
そして思い立った女性がその足でむつみ会へ・・・
三月下旬のことで、一週間後の同じ日に一人の
男性と事務所にてお見合い、その日の初デートは
熊本城の満開の桜並木の下。
昨日お二人で成婚のご挨拶にいらっしゃった。
この至福のひとときがあるから、母もこの仕事を
天職だと言ってたんだなと、つくづくと思う。
「今日に勝る明日はない」
だから良縁にめぐりあったといえば出来過ぎの
話になるけど、縁談や恋愛のみならず、色々なこ
とにあてはまりそうないい言葉♡
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<新たな暦をつくる>
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むつみ会の営業日誌のカバーポケットには、二人の
孫の写真が密かに挟んであります。
生まれた日から今日までの成長の様子が手に取るよ
うにわかる自慢のショットなのです。
妻は止せばいいのに、オフィスに訪れたお客様に、
何かにことつけては見せたがります。
(少々公私混同?)
「これが生まれたばかりで、まだ目も見えなかった
頃で、こっちの方が今なの。上の子はもう小学校」。
子ども好きな方は楽しそうにご覧になるが、中には
そうでもないや、って方もあるはず。
でも、妻の気持ちは僕にだってよく分かります。
オギャーと生まれて、まだ目も見えない、お腹が空
いたといってはママを呼び、オシメが濡れたら変え
てやり、宝物を扱うようにお風呂を使い、お散歩に
出ると、緑色の葉っぱに光る朝露を食い入るように
見つめるつぶらな瞳がある。
やがて寝返りをうったといっては大騒ぎし、初めて
アンヨが出来た日なんかみんなでお祝いしたっけ。
そんな節目節目が昨日のことのように蘇る。
あの、なにものにも代え難い喜びって何なんだろう
とつくづく思うのです。
人が人を愛するっていう本当の意味を胸にしみるよ
うなカタチで教えられます。
それは、言葉では到底表現できないもので、逆に日
頃何気なく使っている言葉というものの軽さを思い
知るのもそういう一瞬一瞬なのです。
暦で言えば、昨日があって今日があり、その先に明
日がありますが、本当かな?と、、、。
その前には平坦で平凡な日常があり、昨日も今日も
明日も同じような風景が流れていきます。
氷の上を滑るように、何にもしなくてもいつの間に
か歳をとっていきます。
でも新しい命が生まれた途端から、新しい暦が活き
活きと時を刻み始めます。
同じ時間のはずなのに、一方では惰性の日々が十年一
日のように過ぎていき、他方では一瞬一瞬が新たな時
間を創っていく。
この違いってなんだろうと考えてしまうのです。
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<人生が二度あれば>
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僕たちが若い頃、「人生が二度あれば」(井上陽水)
という歌が流行りました。なぜか若い連中がギターを
と爪弾きながら歌ったのです。
”父の湯のみ茶碗はかけている。そこに映った自分の顔
をじっと見ている”に続く
”人生が二度あれば、この人生が二度あれば”
という最後のリフレインでは、誰からともなくコーラ
スを始めました。
あの物悲しい光景とは一体何だったのでしょう?
青春時代への手回しのいいレクエイエム?
己の行く末が垣間見えてきた失望感?
こんな筈じゃなかった、俺の人生はもっと違う顔をし
てたってのかな?
友人たちは概ね着実に人生の駒を進めていきました。
そしておよそ半世紀後、着地すべき場所に順調に、い
や順調すぎるくらいに辿り着きました。
よくもあしくもそれが彼らの紛れもない物語となった
のです。
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<未知の世界へのチケット>
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でも、一つだけ確かに言えるのは、今彼らはゼッタイに
あの歌は口にしないだろうということです。
それからもう一つ言えそうなのは、もし彼らがあの半世
紀前の時間に戻ったら、多分同じ人生を繰り返すかも
しれないし、自分の子どもたちにもそんな人生のリフレ
インを望むかもしれないということです。
では僕の場合はどうだったかといえば、、、、、
定年後のことまで考えて自分の人生設計をするなんて、
考えただけでゾッとしたことを憶えています。
未知の世界とか未知の自分とかへの憧れがいつも胸を
ときめかせていたような気がします。
そして自分の子どもたちや、孫たちにもどうやら人知れ
ずそんな生き方を望んでいる。
人生が二度あればと歌う人たちは、何度生まれ変わっ
ても同じ轍を踏むのかなあ、なんて考えてしまいます。
たとえ夕べまでの命だとしても、朝にはまだ生きている。
その最期の一日を謳歌している人だって、地球上には沢
山います。そんな人たちのことを思ってしまいます。
そして、その人たちは人生が二度あれば、なんて歌うのだ
ろうか、ナンテ思ってしまいます。
瞬間が永遠になる事だってあるんだ。
定規の目盛りを追うような人生ばかりじゃない。
昨日のように今日を考え、今日のように明日を考えるよ
うな人生ばかりじゃない。
ちょうど光が水の中で屈折するように、僕たちの未来は
直線で繋がっているわけじゃないと思います。
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<考えても出ない答え>
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確かに、人間が作った社会には運と不運がついてまわり
ます。しかし、自然とか宇宙にそんなものがあるだしょ
うか?社会は人間が作ったものですが、その人間とは紛れ
もなく自然が作ったものです。
だから本当にあるのは一人一人の人間の意志だけなのだ
と思います。そういう自分の意志を幾らかでも持った人達
は、自分の意志でゴールを設定し、そこにたどり着くため
の最短距離を逆算することだってできるはずです。
この世で一番良いことは、上から読んでも下から読んでも、
前から読んでも後ろから読んでも、同じ言葉でできている
のだと思います。
「迷う」というのはとても悪い兆しと思っていいと思いま
す。実際迷っている時にはロクなことがなかった。
そのくせ無理に良い方に考えたがる。
思うに、「迷う」っていうのは何かって言うと、どうも過
去にとらわれすぎていることかなと。
こうすればああしかならないと考えてしまいます。
過去という延長線上に直線を引いてしまいます。
ただそれだけの話で、格別の根拠があるわけでもなんでも
ありません。
過去の延長の線分上に生活設計を立てるだけなら、別に支
障はないのでしょうが、何か新しいことを企む場合には迷
いが生じます。
当然すぎるような話なのですが、それが人間の一般的な盲
点なのでしょう。
それに対して物事がごくスムーズに運んだ時には、
迷いがない。一切ない。
結婚相手、自分の生涯の伴侶を探す場合にも当然そういう
ことがいえるでしょう。
樹木希林さんがよく言ってました。
「考えすぎたら結婚なんてできないわよ」。
亡くなった母も同じようなことを言っていました。
「今の人たちは考えすぎ。考えて答えが出るものならいい
けど、考えれば考えるほど難しくなるだけ」。
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、、、、②へ続く
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