最近つくづくと思うのは、
神様はやっぱり天下万民に平等だった、ということ。
就学直前に家業が倒産して食うや食わずだった幼少年時代。
それから青年期、壮年期と、ご多聞に漏れずお金持ちにな
るのがまぎれもない夢だった。
親に、そして妻に子に少しでもいい暮らしをさせたい、誰も
が羨むような。
他の奴らとちっとも変わらない人生、取るに足りない平凡な
一人の冴えない野郎がいたわけで。
でも、自分でも呆れるくらいお金儲けが下手くそだったわけで。
だからというわけでもないでしょうが、ある時期からなんと
なく思い始めたのです。
だって、破れ屋で空腹を抱えて、家族が肩を寄せ合って暮らし
ていた日々がやけに懐かしいんだもん。あれは本当にフシア
ワセだったのかって。そして思ったのです。老境に入る前に
そのことに気づいてよかったって。
もしそうでなかったら、とてもヤなジジイになってたでしょ
うし、もし望み通り艶福家になっていたとしても心の中では、
思いやりのない、寂しくて虚しい人間になっていたに違いな
い。だから、思うんです、神様はやっぱり天下万民に平等だっ
たって。
なぜならば、神様は誰にもお金持ちになる自由を与えられた
が、同時にその何百倍もビンボーになる自由も与えられた。
すべての欲深い人間どもにも、です。しかも、今すぐにだって
なれる、着ている服を脱ぐように。
我欲を捨て去れば、そこにシアワセが微笑んでいる。名刺をす
ぐ出したがる人間は、いつまでも名刺なしでは生きられない。
肩書きとかキャリアとかは、宮台さん風に言えば、要するに
物格であって、人格ではない。人格とはすなわち仏格にほか
ならず、欲にとらわれている限り絶対に得られない。
物格と物格との不断の摩擦が社会と日常を物格化し、かくし
て時代の固定観念となる。そして、その固定観念(パラダイム)
が多くの人々を苦しめている。
いささか小難しい話になって恐縮ですが、、、、、
ベンサムらが思い描いた”最大多数の最大幸福”といういわゆる
「功利主義」は、思いもよらぬ軌跡を辿り、いつしか、帝国
主義やフロンテイア争奪戦、市場のマフィア化を招きました。
富の最大化をひたすら目指せば、そこにこそ最大多数の最大
幸福が待っているというのが、「功利主義」の思想。
しかし実際に、そこに待っていたのは、モンスターのような
社会的不条理ではなかったでしょうか。
市場経済は際限のない競争と対立を生み、人と人の間から、
利害関係以外の人間的な絆を奪っただけでなく、森羅万象の
道理と対照的で、自己破滅的な人工的サブ生態圏を創出し
ました。対立は対立を生み、憎悪は憎悪を生みました。人々
は孤立し、存在の意味を喪っていきました。
功利主義は結果的に迷走に迷走を重ね、愚かなエゴイズムの
世界を展開せざるをえませんでした。それが近代の西洋的合
理主義のゴール地点だったのです。
功利主義は一寸した思い違いに陥っていたのでしょう。
ビンボーだから不幸なんだと考える人はおそらく、お金持
ちになってもシアワセにはなれません。
裕福な、選ばれし階級や、彼らの上品なサロンには人格が感
じられません。うすっぺらな虚栄があるだけです。
シアワセはそこかしこにキラキラと輝いています。
シアワセには大きいも小さいもありません。
シアワセは相手を選びません。
それはいつもただそこにあるのです。
そして誰かがやってくるのをのんびりと待っています。
野に咲く花のように・・・・。
そういうふうに世界はできている。
そこに気がついた人はビンボーでもシアワセだと思います。
そしてビンボーでもシアワセな人はもちろん豊かになってもシ
アワセでしょう。
シアワセとは自分がおかれている状況や条件のことではなくて
そんな状況や条件に自分がいかに対応できるかという問題に
他ならないのだと思います。
何事にもホンモノとニセモノがあり、ホンネとタテマエがあり
ホントとウソがあります。
perspective(観点)というのは、撮影するときのアングルの
とり方や、風景を絵にするときにの、指で四角に囲むアレ、
なんかのことですが、いつも多面性を持っています。一つの
見方考え方にこだわらないようにすることです。
ある一つのものの見方や考え方正しいとすると、そのほかの
ものの見方や考え方はすべて間違っているということになり
かねません。そうなってきますと、うまくいくはずのものまで
うまくいかなくなります。世界中で戦争が止むことがないのも
たぶんそのためです。
ではもしもです、家庭内がそういうことになったらどうなるこ
とでしょう?争いや諍いが絶えず、不愉快になるから会社が
引けても放課後になっても家に帰るのが億劫になります。それ
はもう家庭とか家族という名には値しないでしょう。
でも結婚するということは、それまでの長い年月をたぶんかな
り異なる環境で育った二人が一緒に暮らすということですから
お互いにお互いに我を通し過ぎるといつまでも居心地のいい
家庭は築けないでしょう。あまりにも価値観が違い過ぎると
歩み寄るのは難しいかもしれませんが、常識の範囲内なら
違いを受け入れるというか、できれば違いを楽しむような気
持ちになれば、人も羨むような家族が一丁あがりとなることは
間違いないでしょう。
熊本の結婚相談所むつみ会を立ち上げて五十四年になりますが
その間に千組を超えるカップルが旅立っていきました。どんな
カップルだったかと言われてもとても一口ではいえません。
もし私たちがこの人にはこの人がいいと決めつけてしまうと
トンデモナイことになりかねません。それだけはかたく自らを
戒めています。ただ結婚相談所の私たちがどんなに心がけては
いても、結婚相談に来られる方が頑な過ぎる場合はどうしよう
もありません。結婚の条件がどんなに揃っていても同じことで
す。逆に不利な結婚の条件が少しぐらいあっても気持ちの持ち
方で十二分にカバーできますし、いやそれどころかそういう人
概ね謙虚ですから結婚が決まりやすいということは言えると思
います。
結婚相談所のメンバーになったからといって必ずいい相手が見
つかるというわけではもちろんありません。結婚相談所にでき
ることはチャンスを提供することで、そのチャンスを活かすか
生かせないかはあなた次第ということです。
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