「スタンダールというフランスの有名な作家に言わせる
と、彼らの恋愛は本物じゃない、疑似恋愛だと。
例えば趣味恋愛、これは美男美女の恋愛ゲームのような
もので、情熱という要素は全くない。
それから虚栄的恋愛、周りに自慢するためのもの、自分
の虚栄心を満足させるためのもの。
そうして、ある人がいみじくも言ったように、結婚とは
美女とカネがドッキングする資本主義、、、みたいなも
のになる。特定の人種だけのサークルになってしまいか
ねない。そうなると、まるっきり歴史の後退していく姿
を見ているような気分になります」。
「お見合い結婚という形が廃れて、今では皆が皆と言っ
ていいくらい恋愛結婚願望に取り憑かれている。恋愛じ
ゃなければ結婚じゃない。
でもその肝心の、みんなが恋愛と思い込んでいるものが
そうじゃないかもしれないというわけですね。また自由
な恋愛の自由の部分が空回りしている」。
「恋愛結婚が増えた分だけ離婚も増えた、というのまぎ
れもない事実です。それは恋愛と思っていたものが、た
だの思い込みでしかなかったのかもしれない。まあ、確
かにそれは言えるでしょうが、もっと深い理由があるよ
うに思われます」。
「もっと深い理由、、、ですか?」
「はい、多分そういった理由。シンデレラ願望もそうだし、
男性の女性に対する美意識みたいなものもそうなんですが、
特定の異性に対するかけがえのない情熱みたいなものが感
じられない。僕たちの世代が恋愛と思ってた感情とは何か
しら隔たったものがあるような気がするんですね。
人間としての感性が型にはめられて、根っこがなくなって
いる感じかな。
根っこがないから、恋愛も一時的で、その時だけの一過性
になってる。だから嫌になったらやめる。
恋人の一人もいない生活が嫌になったからとりあえず恋人
を作って、結婚まで行って、今度は結婚生活が、自分の夫
や妻が嫌になったからやめる。相手の親が気に入らないか
らやめる。子供の教育方針が合わないからやめる。
なんでもそうやって簡単に、嫌になったらやめてしまう。
そしてそんな自分の生き方に何の疑問も抱いていない。
まあ、これはあながち他人事じゃないんですけどね」。
「ある老年のおしどり夫婦にインタビューしたことがあり
ました。半世紀もの長い間仲良くできる夫婦の秘訣ってな
んですかって訊いたんです。すると、奥さまがこう答えら
れました。
”人間だからいいところばかりじゃない。お互いにアラ探し
をしたらきりがない。結婚なんてそんな生活の繰り返し。
だからいいところだけじゃなくて、悪いところもひっくる
めて、ミソもクソ一緒くたにして好きになることじゃない
かしら”って。
お見かけしたところ、野田さんご夫婦もとても仲がよろし
いように見えるんですが、そこんところどうお思いですか?」
「いやあ、耳が痛い話ですね。妻の方はともかく、僕の方
と言ったら欠点の塊みたいなもんですから、自分でもようく
自覚してますが、とっくの昔に愛想を尽かされて当然のケー
スです」。
「まあ、それはご謙遜ということにしておきまして、なん
もかんもというのは、アバタもエクボというのとも違います
よね」。
「僕たちもアバタもエクボに見えた時代はそりゃありました。
でも、そんなもんすぐ、アバタはアバタにしか見えないよう
になります。
でもその時から夫婦の、夫婦のだけじゃない、親子の間だっ
てそうです、本当の物語が始まるような気がします。
幻想じゃない、生身の人間同士の関係ですね。
お互いにそのままの自分でいい、背伸びなしの何にも気をつ
かわない人間同士の共同生活ですね」。
「そうですよねえ、食べ物も、どんなに美味しいものも三日
も食べ続けたら、もう見るのも嫌になる。あれと同じですね」。
「認知症になった元女優の妻を献身的に看病する俳優の夫の
エピソード、聞いたことありますか?
妻の名(芸名)は南田洋子で、夫の名は長門裕之。
もう二人とも亡くなりましたけど。TVでも放映されました。
おしどり夫婦有名人の老々介護と、プライバシーをさらけ出
した勇気ある美談として」。
「知ってます。番組を観たことはないですけど。でもあれっ
て女性からの評判は悪かったんですよね。何が勇気ある美談
だ、とんでもない話だって」。
「異議申し立ての電話がすごかったらしいですね。そりゃそ
うだと思います。
長門裕之って亭主は女好きで有名で、浮いた話には事欠かな
かった。でもそれも役者の肥やしとばかり妻は責めなかった。
おまけに長門の父親の看護を十五年にもわたって、やらされ
たのか、やったのかは知りませんが、実子である長門はお任
せで相変わらず遊びまわっていたらしいですからね。
散々な話です」。
「それで、女優としてのキャリアは閉じ込められてしまった。
亭主の長門裕之より南田洋子の方が格はずっと上だったのに、
ですね。ちょっと信じられない話ですからね、世の女性が黙
って済ませるはずがないですよね」。
「そして、老いて病んだ元花形女優の姿を世間の目にさらし
た。最後の最後まで自分勝手としか思えない。この僕だって
元南田洋子の一ファンとして、認知症になった彼女の露骨な
姿を見るのは忍びなかったです。少なくとも僕だったらあん
な事はしない」。
「彼は彼女の気持ちになって考えた事はなかったのでしょうか?
とても疑問に思います。一女性の立場から」。
「多分亭主の長門には”愛妻”の心のうちは見えてなかったのだ
思います。TVの画面からも甘やかされて育った男の身勝手さが
透けて見えるような気がしましたから」。
「男性の野田さんの目にもそう見えたのなら、女性の方からす
れば、もっとだったのでしょうね。それはもう腹立たしくて仕
方なかったでしょう」。
「でもですね、思うんですが、確かに彼女たちの目には長門の
こころのうちはよく見えてたかもしれませんが、南田洋子の
こころのうちは見えてたかな、というと疑問です」。
「あっそうか!南田洋子さんの思いというのは、多分多くの
女性たちの想像のつかないものだったかもしれない、というこ
とですね」。
「あなたがさっきおっしゃった老婦人の心境だったかもしれな
い。そういう亭主の自分勝手さも含めて愛してた。恋愛の愛情
の延長線で考えるとわからない、永年連れ添った夫婦だけが共
有できる、ナンカやたら懐の深い情感みたいなものがあったの
かもしれない。僕たちは結婚して四十年になりますが、ナンカ
わかるような気がするんです。
僕の実の父親が亡くなった時の、母の心境は、まだ独身だった
僕には知る由もなかった。だってよく喧嘩してたし、愚痴だっ
てよくこぼしてましたからね。でも今ならわかります。
父が息をひきとる前、母は一言”ごめんね”と言いました。父は
それに対して”ノーノー”とだけ、なぜか英語で答えました。
聞いてた僕はなんか禅問答みたいだな、なんて思ったのを思い
出します。僕がなくなる時もひょっとすると夫婦でそんな風な
禅問答をするかもしれないな、なんて思ったりします」。
「長門裕之という夫の完敗だったということですね。これが逆
に夫が先に亡くなったとしてもやっぱり完敗には違いない。
そんな大きな愛情の形にはもう抗するすべがない。もう黙って
ギブアップするしかない」。
「そうしてギブアップした夫である長門裕之は、死後老い衰えて、
一年足らずで後を追うように逝ってしまった。
だからつくづくと思うのは、こんな愛し方、あんな愛し方じゃな
いとダメと決めつけるのもあなたなら、
こんな愛し方、あんな愛し方でもいいと、大きく受け止めるのも
あなたなのだと。人と人の愛情のあり方ってのは、人のちっぽけ
な思惑を超えた、なんかとてつもないものような気がします。
故郷の山や川のように、なんもかんもを許してくれる、ボロ切れ
のようになった心をこそ大歓迎してくれるようなものじゃない
かな、なんて思ったりします。
自由っていうのも、そういうお互いに対するお互いの寛容さの
中から生まれてくるものじゃなければならないと思うんです」。
「うわあ〜ステキ。思いもかけず、いえ本当に期待してたのより
ずっと掘り下げたお話を聞かせていただいて、感謝感激です。
最後に野田さん、結びとして、これから婚活を考える若い人たち
に、これだけは言っておきたいというようなことはありますか?」
「われ鍋にとじ蓋という言葉がありますね。あれはなかなか相手
のいないカップルをけなす言葉のようですが、絶対にそんなこと
はない。モテすぎて、上っ調子になってる男女こそ、肝に命ずる
べき名言なのだ思います」。
「うわっ、思いもよらない方向に飛び火ましたね。言葉の上っ面
の意味合いとはまったく違うということなんですね」。
「はい、そうですね。昔から言い伝えられるものには、世迷い言
もあるにはありますが、時と場合に当たって、とても的を射たダ
イナニズムたっぷりなたとえもあると思うんです。
これは褒め言葉という訳でもないが、男女の中を取り持つ身とし
ては、リアル感あふれるメッセージになります。
まあ、表面的には、どんな人にもそれなりの伴侶があるものだ、
というような意味なのですが、なかなかの含蓄なんです。
具体的に言いますと、、、、
第一に、何よりも人間を生身で見ている、ってこと。
第二に、侮辱してるようで実は公平感にあふれている、ってこと
第三に、これが一番肝心な点なのですが,人間はみんな違うという、
のっぺらぼうでない人間観察がある。
これら三つは、全部今の娑婆をそのままひっくり返したものだと、
ぼくは思っています。しかもそこにはある種の蓋然性がある。
社会的レベルのひずみというのは時として、個人的レベルの問題性
と合わせ鏡のようなところがあります。
つまり、いざ婚活でも始めるかという場合に、人間を生身の人間く
ささで見てないし、公平感どころか、結婚カースト感さえある。
まあ,そこまでは許容範囲だとしても、ぼくが看過できないの
は三番目です。
昔は、まあ僕らの世代の上になればなるほどですが、今ならイ
ジメというか、昔の言葉では、(世間から)つま弾きされるよう
な、しょうもない男がいたもんでした。だがそんな男や女でも、
そんな男なりの女なりの愛嬌というか、自己表現や主張があった。
自分探しなんか無縁の強烈なキャラがあり、周りも仕方のない奴
だと言いつつもどこかで存在感を認めていた」。
「だんだんとみんなのキャラクターが薄くなってきたんですね。
そうなると婚活自体も平面的で味気ないものになってきた」。
「男女の関係ってのは、ってより人間同士の関係ってのは、お互
いの距離感だと思うんです。相手次第でみんな違う。そんな距離
の中から色んな素敵なストーリーが作られていく。
でも今はどうもあらかじめ想定された、男というのは、女という
のは、まして結婚でもしようという相手はこういうもんだという
強い思い込みがあって、みんながそれに縛られてしまって身動き
ができなくなっている。コンビニの店員さんの応対が、ハナでく
くったように同じでしょう、あれと同じかな。マニュアルがまず
あって。そこから外れてはいけない。
ご両親と娘さんがご一緒に相談にいらして、お父さんがこうおっ
しゃったんです。人間なんてみんな同じようなもんだから、娘の
相手は学歴があって、いい会社に勤めてたらそれでいいんだと。
まあ、そういうことなら僕達みたいなアドバイザーなんていらな
いですね。はい、そうですかってパソコンの前に座って、カシャ
カシャってやればいい。小学校三年生くらいの算数の問題の解答
を出すようなもんです。そんなことで本当にいいのかというのが
ばかばかしいけど、僕達の偽らざる気持ちですね」。
「野田さん今日は本当に長い間ありがとうございました。随分予
定時間をオーバーしてしまいましたが、福岡からやってきた甲斐が
ありました。どうやらいい記事を書けそうな気持ちになりました。
またお伺いするかもしれませんが、よろしいでしょうか?」
「少しは参考になったでしょうか?あんまり自信がないんですが、
もしお役に立つようならばいつでもお待ちしています」。
(最終章終わり)
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