風が冷たくなりだす頃、といっても冬支度というほどの
こともない。暖房器具といえば火鉢一つだし、着るもの
ももう一枚重ね着するくらいだった。
ジャンパーなんてない(高級な本革モノしかなかった)。
それどころかセーターもマフラーも手袋に至るまで全部
母親の手作り(既製品は売ってなかった)しかなかった。
だから当然母親が忙しい家庭では、寒いとか冷たいとか
いう問題に対しては、ひたすら我慢の一手しかなかった。
いや確か既製品のマフラーをぼつぼつ目にしだしたよう
な気がするが、子供向けではない。
子どもは、あの頃は徹頭徹尾風の子だったのだ。
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そんな季節のある日のこと、坂下界隈の6軒の一つに、
うら若い「お兄さん」と「お姉さん」が越してきた。
引っ越しといっても荷物はリヤカー半分もない。
日曜の午前、その年最期の秋の空が心地よく晴れていた
のを何故か憶えている。
私たち子ども三名の遊び仲間は妙に人懐っこい。
今と違ってゲームはもちろんTVも家にはマイルームもない。
貸本マンガはあるが、小づかいがない。
しかし、何もかも揃っている今の子どもからすれば、信じ
られないくらい、退屈ということを知らなかった。
何もない分、いや正確には余計な刺激が少ない分、
好奇心と想像力と創造力の塊だったのだ。
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いつのまにか引っ越しのリヤカーの周囲に興味津々で集ま
って、そしていつの間にか数少ない荷物を一緒になって運
び始めている。
「あらっ、坊やたち手伝ってくれるの?ありがとう」。
「おー元気いいね。これからお隣さんになりますので、
よろしくー。そうだ!昼過ぎには落ち着くと思うから皆
で遊びにおいで」。
「いいわね、おいでよ、きっと楽しいわ」。
「お姉さん」「お兄さん」はまるで屈託がない。
それに二人とも貧しそうな割には言葉遣いが、周りの耳
なれた大人たちの方言丸出しとは違う。
そこはかとなく上品だし、そんなところが妙に新鮮で魅力
的で、ちょっと違う世界の人だった。
だからもうみんな気もそぞろで、お昼過ぎを楽しみにして
いた。
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それからというもの毎日のように遊びに行った。
月曜から金曜は「お兄さん」と
「お姉さん」が仕事から帰ってきて、夕食が終った頃、
日曜は昼間から。「お姉さん」がわざわざ呼びに来ること
もあった。
二人の家といっても、屋根裏部屋である。
斜めになった剥き出しの屋根天井は低く、窓もろくに
ない。夜は暗い梯子のような階段をギシギシいわせなが
ら上っていくと、裸電球がポツンと灯っている十畳くらい
のスペースがある。殺風景な部屋にリンゴ箱だけ。
家具類はない、といってもいい。箪笥もない、食器らしい
食器もない。
ちゃぶ台と本棚替わりの”リンゴ箱”が三つ程、近所の八百
屋さんから譲ってもらったのだという。
段ボールが発明される(ある日本人の国際特許品)のはま
だ数年後、りんごなど重量物にも耐える強化段ボールが出
るまでにはさらに数年を待たなければならない。
それまでは板製のリンゴ箱だった。カンナもかけてないざ
らざらで薄手の杉の板をぞんざいに打ちつけた、80cm
40cm四方で高さが50cm程の手頃なサイズのその箱は、
貧しくモノが少なかった時代には、いろいろな用途に重
用された。
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「お兄さん」と「お姉さん」が”新婚さん”と呼ばれる何
か特別の間柄であることを知ったのは、しばらくしてから
であった。
母や近所の大人たちがそう言ってたからである。
何かしら特別の関係というだけで、新婚の具体的な意味も
分からなかったし、知りたいとも思わなかった。
仲間とか友だちとか、そんなありふれた意味の範疇で構
わなかった。
当時の小学4年生はまだ無邪気で、男女といえば即恋愛や
性に結び付けるすべも知らなかった。
新婚さんだろうが何だろうが、私たちにはどうでもいいこ
とだった。子どもとも無論違うし、ただの大人たちとも
違った、それはまさに新しい世界であり、未知の匂いが
する空間だった。うら若い男性と女性が一緒に暮らすこと、
肩を寄せ合って生きていることの面倒くさい意味なんて
分かっても仕方がなかった。
ただ一緒に同じ空気を呼吸していた。そしてなぜかそこ
にいると、訳もなく胸がときめき、とても楽しい気持ち
になった。五人で笑い転げて冬の夜を過ごした。
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遊びにいくといっても、お菓子が出るわけじゃない。そ
の頃徐々に普及し始めたTVがあるわけでは無論なく、
それどころか炭火の影すらない。うすら寒い屋根裏部屋の
裸電球の下で、私たち、「お兄さん」「お姉さん」と私と
友達二人は、トランプや花札に興じ、尻取りゲームなどで
笑い転げながら冬の夜を過ごした。
ただそれだけ、そう、ただそれだけのことだった。
なのに何故あんなにも楽しかったのだろう?温かだった
のだろう?
未だにこうして目に浮かぶように、耳に聞こえるように思
いだすのはなぜなのだろう?
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清貧のすすめという書物がベストセラーになった。私た
ちが憶えているあの新婚の風景は貧しさによって彩られ
ていたような気がする。そしてまた
「あの新婚の風景は貧しさによって祝福されていた」
もしもである、あのとき私たちが凍えていなかったら、お
腹がいっぱいだったら、床に豪華な絨毯があったら、
絨毯の上にふわふわのソファーがあったら、もし天井には
裸電球でなく、シャンデリアが煌めいていたら、
今ここにこうして激しいまでの追憶で胸がいっぱいになる
こともになかったろう。
豊かなのに幸せになれなかったら、もちろん貧しくなった
ら絶対に幸せになっれこない。
でも貧しさの中に幸せを見つけることができたら、それこそ
天下無敵ではないか。
あれから六十年後の現在の私たちを改めて振り返ってみます
とどうでしょう?就活と婚活、
この二つの活のためだけに、自分の一回きりの人生がある
のかなと思ってしまうくらいですね。
判断の基準となっているのは、、、
①物量、②実利実益、③弱肉強食の三つ。
分かりやすいといえば、とてもわかりやすいですね。
今の世の中の、または一人一人の人間を動かしているエネ
ルギーといえば、それだけと言ってもいいくらいです。
そう割り切ってしまえば、世渡りなんて簡単といえば実に
簡単ですね。そのことをとやかく言うつもりはありません。
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たとえ貧しくとも新婚は新婚だ、というよりあの頃、新婚
とは貧しいのが当り前だった。文字通りゼロからの旅だち
だった。そんな時代があったのは紛れもない事実です。
あなたのお父さんとお母さんの、いやお祖父さんとお婆さ
んの時代になるのでしょうか?
あの「お兄さん」と「お姉さん」は、愛情さえあれば生き
ていける、誰よりも幸せにもなれる、そう信じていた
に違いません。
だって、あの時私と二人の友だちは確かにあの屋根裏部屋
で、彼と彼女の溢れるような幸せの分け前に預かったの
ですから。あの時代にはそういう幸福のカタチが紛れもな
く存在していたのです。
そうだ、思い出した!
正月には「お姉さん」が貰ってきたのだ。火鉢を・・・。
その火鉢で皆で焼いて食べたお餅の美味しかったこと。
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