”青春はこわれもの 愛しても傷つき・・・”
若い時はどうしてもそうなるのでしょうね。でも老いぼ
れてきますと、感じ方が違ってきます。
傷ついてこわれてしまうのは、フラれた方じゃない、フ
った方かもしれない、長い目で見れば。
だってフラれた方は自分を愛してくれない人間を一人失っ
ただけなのに、フった方は自分(なんか)を愛してくれる人
を永遠に失ってしまったのですから。
フラれた方の人が、時が経って、自分を愛してくれる人が現
れた時、涙ぐみたくなるくらい感激するでしょう。一緒に乾
杯でもしたくなります。
たまに「自分は今までフラれたことがない」と自慢げに話す
人がいますが、羨ましいというより可哀想だなと思います。
ほんとかいな、という気もしないではないですけどね。
「シェナンド河」というアメリカの西部劇でこんなシーンが
ありました。十年以上前に奥さんを亡くした牧場主のところ
に、ある生真面目そうな青年がやってきて、あなたの娘さん
との結婚を許してください、と言います。するとその牧場主
は青年に訊ねます。
「君は私の娘が好きか?」
青年は答えます。
「はい、心からあなたの娘さんを愛しています。」
牧場主、、、
「いや、愛しているかどうかを訊いてるんじゃない。好きか
どうかと訊いてるんだ」
青年、、、、
「(このオッサン何言ってんだろう?)」
牧場主、、、
「私は妻と結婚したとき、妻を好きだったが、愛してはいな
かった。そして八人の子を育てた。妻が亡くなってもう十年
以上になるが、私は今も妻を愛している」
牧場主は、「愛してる」という言葉の重みを言いたかったので
しょう。愛してるというのは容易いが、日が経つにつれ色褪
せてやがて吹けば飛ぶようなものになるかもしれない。そん
なものは『愛』とは言わないんだ、と言いたかったのでしょ
う。いろんな試練を共に乗り越えてはじめて、お互いにお互
いがかけがえのないものになっていく、それを愛と呼ぶのだ
と言いたかったに違いありません。
私の父は熊本の結婚相談所むつみ会の発足後、二年余りで亡
くなりました。自宅の居間でみんなに看取られながら静かに
息を引き取りました。そのほんの少し前に、母がなぜか一言
「ごめんね・・・」と呟きました。「ごめんね」なんて、一体
何が「ごめんね」だったのでしょう。多分二人にしかわから
ない万感のこもった言葉だったのだと思います。
それに応えるように父は「ノーノー」なんて、なぜかよその
国の言葉で言いました。そしてそれが最期の言葉(符牒?)
になりました。そんな二人の短い応答がいまだに私の心の中
に鮮やかに残っています。親の子でも永遠に理解できない、
短い夫婦の最期の対話。いいところも悪いところも、甘いも
のも苦いものも一切合財呑み込んだ摩訶不思議な心の領域み
たいなもの、それが永年連れ添った夫婦の愛情・・・?一番
大切なものは言葉になんかならないできない。
私の知っている父親像は、家業の倒産後の尾羽うち枯らした
後ろ姿ばかりでした。戦時中は大陸に渡っていくばくかの財
を成したらしいのですが、引き揚げて始めた事業が倒産した
後は運から見放されたような半生を送る羽目になりました。
私が小学校に入学した直後から一転して一家の不遇の暮らし
が続きました。赤貧洗うが如し。
その最中で母も暮らしを支えるために男まさりの女性に見
事に化けていきました。境遇の激変は良きにつけ悪しきに
つけ人を変えます。姉や兄たちも変わりましたが、どうも
一番変わったのは私らしいのです。なぜ”らしい”かといえば、
本人には覚えがないからです。まだ当時は六歳だったのです
から覚えがないのは当たり前だと思います。
でも父や母の立場からすると、それが何よりも切なかったの
だろうと思います。私がその立場だったら絶対にそうなると
思います。