ある日本青年が、どうしてもその歳月が忘れが
たくて、とうとう移住を決意しました。
心配した友人が言いいました。
「移住するのはいいけど、仕事はあるのか」。
その青年は答えて言いました。
「あの国はとにかく辿りつきさえすれば、一文な
しでも当面の生活の心配はいらないんだ。
なぜっていや・・・」。
仕事が見つかるまで居候できるからです。信じられな
い話ですが紛れもない事実。経済的に余裕のある家で
はどこでもそんな人を何人も(見ず知らずのアカの
他人でも)面倒みている、一年でも二年でも。
信じられない話だが、その国の人たちにとっては
困っている人を見て見ないふりをしている方が信じ
られない話なのです。
法律で強制されているからではなく、助け合いの精神
が伝統として、深く人々の生活に根付いているからです。
強制しなければならないという事は、それ自体が何かを
上滑りしているという証しのような気がします。
信頼があれば強制はいりませんし、強制があれば信頼は
なくなります。
国家という存在は結局、馬鹿々々しく分厚い六法全書で
がんじがらめにしなければやっていけないのでしょうか?
法治主義?法の支配?
無法な前近代を乗り越えた、銃と牢獄による近代国家?
とフーコーという人は断じています。そうかもしれません。
法という正義はalmost(nearly)ですが、
all(100%)でもalmost all(99%)でもありません。
almostとは、正義でもあり、その逆でもあるという事?
あっ、そうだ、青年が移住した国の名を何というか、
その国の名を、ブータンといいます。
ちなみに、ブータンは女系相続の”国?”です。ですから男
性はわりと小さくなっています。そっちの方が人間らしい
世の中になるのかもしれません。
男性はとかく理屈っぽくて、法律とかシステムとかが、それ
から競争とか戦争とかが大好きみたいですから。
そして、ブータンは家族的共同体を核にした”国?”である。
主役は家族で国家は脇役的な存在という感覚ですね。
ですからお役人はとても少ないし、お役所はできるだけ節約
を心がけて、どうでもいいような出費は一切なしです。
・・・ってなことになってくると、社会(人間の生活
共同体、コミュニテイ)というものを俎上に乗せてみ
たくなる。
社会学なるものがあるらしいので、一応覗いてみます。
「社会」とは何ぞや・・・・・?
「人間の行為や文化と関連づけながら共同生活の構造
や機能、社会の変動について研究する学問」
(広辞苑 第六版 [1])
からでてきたもの。
相変わらず愛想もクソもないや、ってやつですが、
つまりこういうことでしょうか・・・。
一つの軸みたいなものがあって、そこに人間たちがどう
でもいいような理由で離合集散をくりかえす、
それが「社会」?エエ~!ってねえ、思わず・・・。
ぼくの感覚でいえば、そんなものじゃないです。
「なにか限りなくやさしいふくらみのあるもの」
利他心の及ぶ範囲における人間の共同体、もっといえば、
海を隔てていても、幾千歳離れていようと、つながって
いるこころのカタチ。
僕の亡くなった父はよく言ってた。
「上手くいってる間は親なんかないもんと思ってりゃ
いい。でもな、躓いてどうしようもなくなった時は、
遠慮はいらん、いつでも帰ってこい」。
家族とはそこから小鳥が自由に大空へ飛び立つところであ
り、傷ついたり疲れたときにはいつでも翼を休めることが
できるところ。というふうに考えればしっくりきますし、
生まれてきたよかったなあ、自分がそうされたように、他
人にもい同じことをしてあげたいなとも自然に思います。
だから、血はつながっていなくても、自分の弱さや挫折を
受け入れてくれるところなら、それはもう立派な家族であ
り、社会なのだと思うのです。
日本でも昔、困った時はお互い様という言葉がありました。
そんな友人知人や隣人がいました。そのなかには刺青をい
れた人だっていました。自分がひもじいから、他人のひも
じさも分かる、身に沁みてね。そんな色んな人が居たよう
な気がするのです。
世の中が豊かになるとともに、貧窮した人間はただの落ち
こぼれになり、クズ扱いにだってされます。自分の親兄弟
や、時には夫婦や親子の間でもです。そんな世の中に住み
たいと思いますか?
負けた時点から、人はホントの一歩を踏み出すのかもしれ
ないのに、勝ちに奢った人間からなる世の中は敗者復活戦
が大嫌いなのです。一つのシーズンが終わったらみんなが
同じスタートラインに立って一緒に歩き出すということが
当然なのに、一部の人たちだけが最初からゴールラインの
すぐ近くからスタートではあまりにも不公平です。
熱心なチベット仏教の国で、国王はじめ国民全てが毎日の
お祈りを欠かしません。お祈りは専ら世界の平和と世界中の
人々の幸せを願うという内容です。
日本人も新年には神社にお参りに行きます。でもその時あ
なたは神殿に向かって何をお祈りしているのでしょう?
仕事がうまくいきますように、家族が健康でありますように、
素敵な男性(女性)とめぐりあいますように、宝くじが当たり
ますように、子どもが受験に受かりますように・・・。
日本は今結婚受難の時代と言われています。熊本の結婚相談
所であるむつみ会でも五十四年前の創業当時と比べますと
自分中心に物事を考えがちな人が明らかに増えてきて、それ
が常識のようになってきています。しかし、お互いが自己本
位になってきますと、それに比例するように結婚相手の選択
肢も狭まってきますし、たとえ結婚したとしてもなんでもない
ことでは破綻を迎えたりしがちです。
熊本の結婚相談所むつみ会では、母の代から結婚相談という
のは文字通りにただ男女の機械的なマッチングに終始するの
ではなくて、個人的な悩みを聞いてあげたり、アドバイスを
求められれば喜んで応えたりするところだと思ってきました。
余計なお世話と思われないような範囲内でですが、、、、。
でも世の中そのものが世知辛くなるにつれ、そんな試みも
虚しく思われることが多くなって来たような気がします。
若い人たちがワーキングプアなどと呼ばれ結婚しにくい状況
が目立って来ました。
でもブータンの人々を見ていると、結局はひとりひとりが何
を大事にしているかという価値観や幸福感の問題に行きつく
ような気がします。
そこのところが変わらない限り、たとえ景気回復して裕福に
なっても同じことの繰り返しではなかろうかなんて思ったり
します。
はっきりいって、今の日本列島津々浦々にあるのは恰好だけ、
虫食いだらけの世相のような気がします。
むかしから私たちの国では労働という言葉はなく(明治以降
の外来語の和訳みたいなもの)生業(なりわい)といってい
ました。生業によって確かに対価を得て、それで生活をして
いくのですが、お金儲け自体が目的なのではなく、いい仕事
をした報酬としてお金が入ってくるという感覚でした。
ですからいい加減な仕事ばかりしていると信用をなくし、信
用をなくしますと仕事が入ってこなくなり、生計が立たなく
なります。その背景にあるのは自分がされて嬉しいなと思うこ
とを他人にもするという思いです
そんな生業を陰から支えているのが家庭でした。社会と家庭が
両輪となって「なにか限りなくやさしいふくらみのあるも
の」に包まれて人は生きていくものだと思うのです。
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