現代結婚模様・枯れてゆく森
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昔は美人が目立った。まわりに美人が滅多にいなかった
から。ところが、テレビが普及してくるやいなや画面に
登場するのは美人ばかりになった。大体が美人と美男の
ラブストーリーなんて所詮一般人には無縁なのにそんな
のばっか。そんな番組を作る方もアホなら、見る方もアホ
かいな、とよく思う。
美人は見飽きる、そうでないのは見馴れる、つまり飽きが
こない。もし僕がプロデユーサーなら絶対、飽きがこない
レベルの男女の熱い恋愛物語をつくる。歳を重ねても色褪
せない愛の物語。
美人アナなんてのは最近ではただのでくの坊としか思えない。
希少価値ってのがなくなったんだろう。美人は美人である前
に人間なのだから、人間としてのキャラが立っていなければ、
マネキンみたいなもんでしかない。
キャラさえ立っていれば毎日を暮らしていても見飽きること
はない。キャラというのはすなわち希少価値があるというこ
とで、希少価値があれば美人も不美人もないし、希少価値が
なければ逆の意味で美人も不美人もない。どちらにしろ美人
も不美人もない。
まあ、そんなことはどうでもいいが、問題はそんな人間ども
のキャラが枯渇すると、世の中から物語がなくなること。
希少価値と希少価値がぶつかり合って生まれるのが物語なの
だ。その証拠にキャラが躍動する小説はベストセラーになる
が、そうでない小説には誰も見向きもしない。
高度経済成長からこのかた、成長曲線と歩を合わせるように
キャラがない人間が増えていった。なぜかというとキャラが
必要でなくなった、というより邪魔者でしかなくなった。
世の中に物語がありすぎると経済は成長も拡大もしないから
だ。人の心が空っぽにならないところに経済の繁栄はない。
そしてカネが世界中で貧しい人々を生み出す。
産山村の湧水池のそばで、日本一美味しい水で作ったコーヒ
ーが自慢の小さなカフェを営む親父が言ってた。たまに博多
にいくとすぐ帰りたくなるって。都会には人間がいない。人
間の顔を借りた得体のしれない生き物がいる。
人口二千人足らずの産山村では多分人間の数より、野性の鹿
や山羊の方がずっと多い。誰も怖がらないからとても人懐っ
こい。初対面なのに擦り寄ってこられると心が何とも言えず
あったかくなる。そして誰にでも優しい気持ちになる。僕た
ちには野性の鹿や山羊の顔は見分けられないが、カフェの親
父にはちゃんとわかるらしいから不思議だ。
人間らしい暮らしとはそういことなんだろう。この村は経済
成長とは縁がないが、少なくともこの親父のような人間がい
る。一歩外に出ると瑞々しい緑葉が繁茂し、バージンブルー
のような空からは、惜しみなく光の粒子が降り注ぐ。道端に
は地下水がとめどなく湧き出ている。そして野性の鹿や山羊
よりずっと少ない人間たちが暮らしている。
「結婚して子どもを持ったことに後悔はない。この社会で結
婚して母になったことに後悔がある」。
とある母親のコメント。
NHKが子どもを持つ母親に対して行ったアンケートによると、
三人に一人が母親になったことを後悔したことがある、、、
らしい。ことは母親だけではなく父親もだろう。父親になん
かならなきゃよかった。結婚なんてしなきゃよかった。
以心伝心である。そんなふうに思われて育った子どもはどん
な大人になるのだろう。そしてその子どもが大人になって結
婚して母親、父親になった時・・恐るべき負の連鎖。
生活が苦しいからではない。それをいうなら昔の方がずっと
苦しかった。食べるものも着るものも住んでいる家も比較に
ならない。しかも子どもの数はずっと多かった。その日暮ら
しの家庭も多かった。なのに・・・・。
”この社会”とはどんな社会なのだろう?結婚しても後悔し、
結婚しなくても後悔する”この社会”。
熊本の結婚相談所むつみ会を六十年前に立ち上げた亡き母
の口癖は、
「今は小さな一粒の種かもしれないけれど、やがて芽を出
し花が咲き、林となり、森になるかもしれない」。
それが結婚するということなんだと。なあんにもない男女が
親の傘の下から離れて、家族を築き、養い、子どもが成長し
てお婆さん、お爺さんになってゆく。それはささやかといえ
ばささやかかもしれないけれど、かけがえのない二人だけの
物語。
その言葉の通りに、六十年の歳月の中で千組をゆうに超える
家族の物語が生まれ、その子、その孫からまた多くの物語が
紡ぎ出される。そうやって”この社会”が生まれたはずなのだ
が・・・そんな林や森が少しづつ枯れ果てようとしているの
だろうか?