目次
海や山が死ねば、命も終わる
海や山はすべての命の根源である。だから、海や山が死ぬと、すべての命が存亡の危機にさらされる。
南方熊楠は、輝かしい名利を惜しげもなく投げ捨て、熊野の森を守ることに半生を捧げた。道端のお地蔵様が新政府によって放棄されることに、激しい怒りと危機感を覚えたという。
そして彼は、百年後の世界を予言し、それが見事に的中したのだった。
アクセルしかない社会
お金に振り回されるだけの近代社会は、まるでアクセルしかない自動車のようだ。ブレーキもなければ、ハンドルを切ることもできない。
目の前には、どこまでも続く一直線のアスファルト道路があるだけ。まわりの景色なんて、最初からなかったようなものだ。
脳裏にあるのは「一時間でも早く目的地につくこと」だけ。でも――目的地に着けたのか?
そんな目的地なんて、はなから存在しなかった。ようやく今、そのことに少しだけ気づき始めた。いくらなんでも、そうでなきゃ嘘だろう。
目的地は、人の欲望が映し出した幻影でしかなかった。
苦海に沈んだ真実
「苦海」とは、やみくもに目的地へたどり着こうとする中で、無視されてきた景色の中にこそあった。
私たちは、一握りの「成功物語」だけを耳にタコができるほど聞かされて育った。しかし、知らなかった周囲の景色の中にこそ、知らなくてはならない真実があったのだ。
これからは、そうしたかけがえのない真実に目を向けなければならない。でなければ――。
結婚できない「苦海」の現象
今、日本で(日本に限らず、経済先進国全体で)結婚できない、あるいは結婚しない男女が増えている。結婚しても出生率は低く、当然、人口は減り続ける。
これも「苦海」の一現象なのだろう。
情報があふれるほど人が減る?
結婚相談所や婚活関連の情報ビジネスが増えても、結婚できない人が減るわけではない。むしろ増えているようにすら見える。
なぜなら、情報はあくまでも「情報」であり、そこには生身の人間の「血」が通っていないからだ。
むつみ会があった頃は
熊本の結婚相談所「むつみ会」がスタートした半世紀前は、まだ同業他社も少なかった。便利なものがすぐには普及しなかったのは、新しいものに馴染めなかっただけではない。どこかに「違和感」があったのだと思う。
当時はコンピューターもなく、インターネットという言葉すらなかった。初期にネットの話をしても「そんなもんで何がわかるんかいな」と返されたものだ。
データでは割り切れないこと
ましてや、結婚相手を合理的に選ぶなんて、割り切られたらたまったもんじゃないと、誰もが思っていた。
確かに、それは一理も二理もある。あまりにも便利で合理的なものには、落とし穴がある。見落としてしまう部分が、多すぎるのだ。
理屈で測れない結婚という営み
データは理想的な検索には向いているが、そこから外れる人間が急増する。
結婚は、人間が人間を選ぶ営みだ。美人コンテストでも、優等生コンテストでもない。第六感でピンとくる相手は、みんな美人に見える。みんなどこかで人より優れている。
少なくとも「自分にとって」そうであることが、決定的に重要なのだ。
思わぬ落とし穴とこじつけ
人生というものは、あまりにも作為的になりすぎると思わぬ失敗をする。
「こうすれば、ああなる」と因果関係に頼りすぎると、それはただの「こじつけ」になってしまう。理屈は使い勝手がいいが、それゆえに気をつけなければならない。
幸せとは何か
表面的には恵まれすぎているように見える夫婦が、必ずしも幸せとは限らない。逆に、不遇に見える夫婦が不幸せとも限らない。
そうした「結婚の機微」に、少しずつ気づき始めている人も増えてきたように思う。一昔前は、そりゃひどかったから。
極端から、少しずつ「中庸」へと帰りつつある――そんな気がしている。