熊本市婦人会(当時の会員数約二万名)に熊本の結婚相談
所であるむつみ会が会報を出すようになったのは、元々が
結婚相談所ではなかったからでした。
母の日に市内の小中学校で「赤いカーネーション」という
児童生徒の投稿冊子を出すようになったのがきっかけにな
りました。
山田としさんという在熊の作家に投稿をお願いしたり、個
人的に母が親しくいただいていた、熊本市の婦人会長であ
り市会議員でもあり、島田美術館の館主で、熊本の文化の
一端を担っておられた島田としさんらの助力で実現したも
のでした。熊本日日新聞にも採り上げられたもしました。
そうい流れで婦人会の交流誌も出したらどうかという話に
なったのです。
とはいえ何せ否も応もなく経費はかかるわけですから、会
報(むつみ会報といいましたので、それがそのままむつみ会
結婚相談所のネーミングの由来にもなりました)その経費を
協賛広告で捻出しようということになったわけでした。
それがまだ大学生だった私に委ねられたのですから、正直
戸惑いました。在学していた熊本大学は国立で、当時の国立
大学は今からすれば信じられない話ですが、学費はタダ同
然でした。
月謝にして一千円、それを半年ごとに6千円づつ払うだけで
良かったのです。土方のアルバイトを三日もすれば払える金
額です。また旧制五高時代の古い建物をそのまま使っている
学生寮の寮費はナント年間百円というタダ同然の安さでした。
また三食にしても、学生寮の食券が一食二十円で、大学キャ
ンパス内にある学生食堂の定食券も四十円で、そのお金もな
い学生は、肉の入っていないカレーライスや、素うどんや、
キャベツの切れ端が入った焼きそばでお腹を満たしていまし
た。それはもう貧しい学生たちには限りなくやさしいところ
だったのでした。
また私が在学していた法文学部の法科(当時は法学部はなく
法文学部の中に法科と文科がありました)は典型的なマスプ
ロで、たいていの講義が大講義室(400人くらい収容)で
行われます。出欠をとる時間もないので代返が堂々とまかり
通る有様です。
そもそもが法律というのは膨大な量なので講義なんかでは消
化できないのです。ですから自習がメインになります。年二回
の試験で点数を取りさえすればちゃんと卒業できます。
ですから私もそれをいいことにアルバイトに精を出していまし
た。というよりアルバイトができるから法科を選んだようなも
のでした。
在学中に三十種類以上のアルバイトをこなしていたので、
Mr.バイトというニックネームがついたくらいでした。
そういうわけで結婚相談所の会報の協賛広告とりをするとい
っても、バイトの合間合間にしかできませんし、おまけに紙
面の取材や編集も任されるハメになったので、それはもう大
変だったのを覚えています。
それならバイトを辞めればいいと思われるかもしれませんが、
バイトの稼ぎが我が家の家計にとって欠かせないものになって
いたのでそうもいかなかったのです。
しかし、この会報発行に深く関わったのが、今思いますと後々
のためには大学で学んだことより大きな収穫があったように
思います。
文章を書くことだけでなく、誌面の企画もしなければなりま
せんし、そうなりますと今まで思いもよらなかった人たちと
も積極的に接触し、人間関係のネットワークも築いてていか
なければなりません。それが結果的に協賛広告を提供してく
れる会社や人材の拡大につながっていくのです。
当時の熊本市長である星子氏と知り合ったのもそういう事情が
あったからでした。コネはあったにしてもほとんど体当たり
でした。何しろこちらは無名のしがない一大学生に過ぎないの
ですから。星子市長はもういいおじいちゃんでしたが、若い頃
は随分型紙破りの豪傑だったらしいのです。戦前は中国大陸を
それこそ股にかけた大陸浪人として結構名を馳せた方だったの
でした。
ですから官僚なのに全然それらしくないし、私生活はびっくり
するくらい質素そのものでした。ご自宅に伺った時にはほとん
ど呆れるような思いをしました。すごい破れ屋で、廊下にはア
チコチに穴が空いたままで、修理の後もないくらいでした。あ
の当時にはそういう型破りの人がまだいたわけです。
僕がまだ孫くらいの年齢だったのも幸いしたのだと思います。
お忙しい身に関わらず、厚かましい若造の相談相手にもなって
くれて、会報の一面にもたっぷりとした内容の記事を投稿して
くださいました。それだけでどんなに会報に重みと信用がつい
たか計り知れないものがありました。