熊本の結婚相談所むつみ会が誕生したのは、ちょうどサクラ
マチの前身である熊本交通センターが開業した年でした。熊
本交通センターはバスターミナルとして当時においては、と
ても画期的なもので、熊本の全てのバス会社が乗り入れでき、
熊本の市民としては、この上なく便利なものでした。当時は
まだバスターミナルは各々のバス会社が個別に経営していた
のです。
地下も当時としては珍しい大規模なショッピングセンターと
なっていましたので、大勢の市民で賑わったものでした。私
たちの世代の人間にとっては想い出がいっぱい詰まった場所
でもありました。
特に観音の泉(今でもありますね)の空間は恋人たちの格好
の待ち合わせ場所で、多くの人たちが何かロマンチックな思
いをいまだに胸に描いています。ですから、もう何年前にな
りますか、交通センターが閉鎖される時には、大勢の年配の
方達が押し寄せて、名残を惜しんでいました。ご夫婦でとい
うのが目についたのは、お二人の恋人時代の思い出がいっぱ
い詰まっていたからでしょう。
日が暮れる頃合いにはそこは束の間の逢瀬の終わりの場所で
もあり、別れを惜しみながらバスの赤いテールランプを見送
ったのでした。そんな光景を思い出していたのかもしれませ
ん。
そんな人々の多くががやがて結婚し、子どもを産み育て、孫
が生まれ、いいお爺さんお婆さんになっています。何か見果
てぬ夢を見ているような気がします。時は否応無く過ぎてゆ
き人々だけが追憶と共に取り残されるのでしょう。
むつみ会結婚相談所はその交通センターから歩いて4、5分
の、熊本放送局の正面玄関の前の貸ビルの一室にありました。
上熊本行きの市電通りまではとても賑やかでしたが、肥後銀
行本店から熊本放送局に至る二、三メートルほどの山崎町の
通りに入りますと一転して人通りがまばらになります。当時
熊本市の民間の放送局といえば熊本放送のみでしたので、
RKK通りとも呼ばれていました。
交通センターから至近距離にあり、誰もが知っている目標物
が目の前にあったので、むつみ会結婚相談所は開店当時から
千客万来の賑わいでした。
ただまだ結婚相談所という職種そのものが、今と違って馴染
みがないどころか、結婚相談所って一体何をする所なんだろ
うという人がほとんどでした。独身の男女の情報がいっぱい
あって結婚のお世話をするところということをわかってもら
うためにとても苦労したようです。
結婚の相談ではなく、身の上相談のようなことをする所と勘
違いする人も大勢いました。ですから、そんな見当違いの人
の来店も多かったのですが、何はともあれお客様はお客様で
すから、来る人拒まずの、ちょっと何が何だかわからない忙
しさでしたが、それはそれで楽しい結構楽しくのどかな思い
出となっています。
今では結婚相談所もあちらこちらにあり過ぎて困るくらいで
すが、その当時は少な過ぎて、、、というより一軒きりでした
から、逆にそれで困りました。開店から十年くらいはそんな
状況で、むしろ一日も早く競争相手が増えて、こういう便利
な場所があることを皆さんんに知っていただきたいと願って
いました。
ただ幸いに当時は婦人会の活動がとても盛んで、そこに機関
紙を発行していた縁で、そちらの方面からだんだん存在を知
られるようになりました。お茶やお花や料理の教室がたくさ
んあって、みんな婦人会の会員になっていたので口コミで広
がっていったのが天の助けでした。
そういった教室には大勢の独身のかたが、女性だけでなく男
性も通っていました。つまりそこは独身の若い人たちにとっ
ては将来の結婚相手を探す格好の場所でもあったのです。
ただそうはいってもやはり人数的に限りがあります。それに
すんなりと縁談が纏まればいうことないにしても、纏まらな
かった場合が少々気づまりになります。人間関係というのは、
特に縁談がらみとなると、厄介なものですから、結婚相談所
の存在が身近にあるととても好都合だったようです。
そういう次第で私たちの結婚相談所がことのほか賑わったの
は良かったのですが、問題は手数料でした。ことの馴れ初め
からいって、あくまでビジネスの一環だからといってそう簡
単に割り切れるものではありません。だからと言って、オフィ
スのお家賃など諸経費は無視するわけにはいきませんから、
ずいぶんその辺りで長い間悩みました。
当時の熊本市の婦人会長さんが、島崎町の島田美術館の島田
としさんという方で、市会議員もされていました。素晴らしい
人格者でしたが、母と気が合ったのか、むつみ会結婚相談所の
事務所にもことあるごとにお顔をお見せになりました。それで
相談したところ婦人会に出している会報に協賛広告を出したら
どうかというアドバイスをいただきました。その協賛広告の
募集の営業がまだ熊本大学の学生だった私がこの仕事に関わる
きっかけになりました。