春風駘蕩(しゅんぷう、たいとう)・・・・・
きょうのお天気のように、あったかい春のそよ風が
そよいでいる。春一番というのは大好きな言葉です。
青空はるけく梅の花が散り始めてる。
”梅一輪 一輪ほどのあたたかさ”
そんななか、草原でくつわを放たれた馬が、
のんびりのんびり、未だ萌芽の草を食んでいる
そんな光景が眼に浮かぶようです。
というわけで本日は熊本の結婚相談所むつみ会の家族
(3世代総員6名プラス犬1匹)を四字熟語に託して、紹
介させて下さい。我が家は私たち夫婦が結婚した四十年
前から、どういうわけか、今時では珍しい三世代の大家
族なのです。
熊本で、というより九州で、というより多分北は北海道
から南は沖縄まで見渡しても結婚相談所の「け」の字も
なかった六十年近く前に、ナント結婚相談所なる五文字
の看板を掲げてしまった今は亡き母(父は婚約時代にみ
まかりましたが)と一緒に住まうことになったのでした。
私は四人兄弟の三男坊でしたが、にもかかわらずそうい
う仕儀に至ったのはやっぱりフィアンセだった妻との相
性が抜群だったからなのでしょう。
まあ、当時は今のように親と同居なんてトンデモナイとい
う風潮はなかったにしても、敬遠しがちではありましたか
ら、非常に珍しいケースではあったのでした。やがて子ど
もが生まれ(母にとっては孫)可愛いい盛りになりますと、
「シアワセ、シアワセ」が母の口癖になりました。それが
いつの間にか風月が流れ、今度は私たち夫婦が同じように
かわいい孫たちと泣いたり笑ったりしてシアワセを日々満
喫しているのですから、因果はめぐるという言葉を思い浮か
べたりします。
さてそれではまず、、、、
一、心からの敬意を表して・・・妻(通称バアバ、
ババアデハナイ)と同居の次男の妻(オカアサンorマンマ)。いわ
ゆる”嫁姑”っていう面倒千万な関係、、、
尋常ならそういうことになるのでしょうが、一事が万事、尋
常がいつの間にか尋常でなくなるのが何故かわが家のわが
家たる由縁となっているような気がします。
先立つところの亡き母と私たち夫婦と子どもたち(姉とその
娘たちも一緒でした)も同じ屋根の下に寝起きしてしていま
したが、母と妻は血が繋がっていないはずなのに血のつな
がっているはずの私とよりも仲良しだったのですから世にも
珍しい存在と言えるでしょう。スゲエなと心底思います。
妻には女姉妹がいなかったので、私の姉は歳の離れたお姉
さんで、その二人の娘っこは(当時高校生)は妹のような
存在でした。今はオッサンになった息子二人は、姉やその
娘っ子たちは今も、叔母や従兄弟という言葉では片づけら
れない間がらのようです。一緒に暮らしを共にするという
のは何かしらすごいことのような気がしてしまいます。
我輩はあまり笑いません。したがってわが家のテラス越し
にあたかも弾むがごとき笑い声が聞こえてきたらば、それ
はバアバとマンマのそれでまちがいない、と思ってよいよう
です。いやいや無論もっともっと騒がしい人種もおります。
二人の孫ですが、その二人の小さな友達たちも毎日のよう
に遊びに来るので、蜂の巣のような状況が当たり前になって
しまいました。マイッタ、マイッタ。歳を取る暇がないよう
な気がいたします。
孫のハル君が生まれ、またその二年後にみーちゃんが生ま
れ、さらにさらに孫のハル君がおるときは殊更絶えないの
であります。さて、わが家の”嫁姑”は一見すれば、まさしく
対照を絵に描いたようなものです。嫁の美帆ちゃんはシャー
プな美人、オツムの回転も高速度である。姑の由美子(ユッ
コと我輩は呼ぶ)は形容するならコンチネンタル・アバウト
・・時がゆっくり流れている。両人を四字熟語にたとえよう
としたとき、迂闊にも今更ながらに気がついた。というのは、
図らずも共通語になってしまったのである。
「天衣無縫」
・・・天女の衣には縫い目がない。技巧足らずで、
天然的なる魅力が持ち味で、無邪気。
これだ!と思いましたね。人間、天衣無縫が一番。なんてたっ
てややこしくない。考えすぎたり気にしすぎたりすると、縫
い目がごちゃごちゃになってしまいます。そうなったらもう
衣服じゃなくゾーキンみたいなもんです。みんながゾーキン
を身につけてゾロゾロ歩いてる。そして結局、あんたのゾー
キンより私のゾーキンの方がまだいいわ、なんて惨めなざま
になってしまいかねない。
「天然」とも言います。「天然」というのは、いいとこばかり
見せようとするのではなく、そのまんま、つまりいいところ
も悪いところも曝け出して平気の平左といられる精神構造の
ことでしょうか。日常生活の隅々まで気を遣っているとあま
りいいことはありません。ストレスがたまって長生きもでき
ないでしょう。大好きな漫画の、あの「バカボンド」のバカ
オヤジの口癖である『それでいいのだ!」でいいのだと思い
ます。