目次
女学校は「花嫁修業」の場だった
かつての女学校は、今のように知識やキャリアを積む場ではありませんでした。
教養を身につけるというよりも、「良いお嫁さんになるための準備」、つまり花嫁修業の一環としての意味合いが強かったのです。
授業参観には、適齢期の息子を持つ父兄が“未来の嫁”を探しに来るという光景も当たり前。
また、当時の女性たちは卒業後に経済的に自立できる環境が整っていなかったため、結婚は就職そのものといっても過言ではありませんでした。
30歳で“老嬢”扱い…結婚しない女性の厳しい現実
もし結婚せずに三十路を迎えようものなら、「老嬢」と呼ばれ、肩身の狭い思いをして生きていかざるを得ませんでした。
女性にとって結婚は、自由意志や恋愛感情とはかけ離れた“義務”に近かったのです。
当時、女性の人権や自由といった価値観は、社会にほとんど根付いていませんでした。
そんな中で唯一、「日本女子大学」は女性の自立を目指していた教育機関でしたが、それでも“目白の姥捨山”などという不名誉なあだ名がつけられていたのです。
共働きが当たり前の時代へ:女性の結婚観が変わった理由
現代の結婚相談所においては、男性からの希望条件に「女性の職業」が含まれるのも珍しくありません。
つまり、結婚しても共働きが当たり前の時代になったのです。
それに呼応するように、女性たちもハナから「仕事を持って生きる」ことを前提に、安定した職業を選ぶようになってきました。
法律や制度がほんの少し変わるだけで、結婚に対する価値観や人生設計がここまで変わってしまうというのは、ある意味、恐ろしいことでもあります。
「あなた」がそばにいる暮らし:女性たちの密かな憧れ
1970年代、小坂明子さんの『あなた』という曲が大ヒットしました。
若い女性が思い描く、ささやかな結婚生活が丁寧に歌われています。
♪
もしも私が家を建てたなら
小さな家を建てたでしょう
私の横には、あなた、あなた
あなたがいてほしい
♪
当時の若い女性たち、あるいはすでに結婚している女性たちにとって、こんな“あなた”と築く日々は、もしかしたら叶わぬ夢だったのかもしれません。
明治の乙女たちにとって、恋愛と結婚は別のもの
明治時代の女性たちも、恋や憧れを持っていなかったわけではありません。
ただし、恋愛と結婚は別物でした。
恋は心の中にそっと秘めるものであり、結婚とは社会の秩序を守るための契約だったのです。
恋愛結婚は、よほどの強烈な個性を持つ女性にしか許されなかった時代。
それでも、ごくまれにそんな“例外”があったことを、私の母はよく話してくれました。
写真だけで決まった結婚、それでも夢のような新婚生活
母の結婚もまた、本人の意思とは無関係に決まったものでした。
お見合いすらなく、ただ一枚の写真だけを見て、佐賀県の呼子という港町から、父の赴任先であった中国・上海へ単身でお嫁に行ったのです。
父は当時、特務機関員をしていました。
それでも、二人きりで過ごせた新婚生活が約7年続いたことを思えば、母にとっては幸運だったのかもしれません。
当時の日本では、新婚夫婦が二人だけで生活することは夢のまた夢。
多くの女性が、夫の家族や親族に囲まれながら、気を遣いながらの毎日を過ごしていたのです。
最後に:結婚相談所のある時代でよかった
いま、私たちは「自分で相手を選び、自分で人生を決める」ことができる時代に生きています。
その選択の自由こそが、結婚相談所の必要性を高める土壌でもあります。
明治・大正・昭和初期の女性たちに比べれば、現代の私たちは遥かに恵まれている。
そして、その時代の流れの中で、結婚相談という仕組みが意味を持つようになったのだと、改めて感じます。
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