女学校なども教養を身につけるためというより、花嫁修業の
一つのようなものでした。授業参観は適齢期の男子を持つ父
兄の嫁探しの場といった観を呈していました。
また女学生たちにも卒業して経済的に自立できるような社会
状況ではなかったので、結婚とは就職そのものだったのです。
それでも結婚しない、あるいは結婚しない女性は三十歳くら
いでもう”老嬢”などという有難くない呼び方をされ、それは
もう肩身の狭い一生を送ることを余儀なくされました。
その中で、今もある日本女子大学は自立できる近代女性の育
成を目指していましたが、別名”目白の(今の目白区にあった
ので)姥捨山”などと陰では囁かれていました。
女性の人権とか自由とかは徹底して無視されてしまったのが
明治時代における結婚文化の現状でした。
結婚しても経済的に自立して共稼ぎの夫婦というのがほとんど
で、いやそれどころか結婚相談の場では男性からの結婚の条
件に大抵女性の職業が入ってくるのと比べるとまさに隔世の
観があります。
女性もハナからそのつもりで安定した職業を選ぶ人が年々増
えてきました。
それにしても法律をほんの少し変えるだけで、世の中がこれ
ほどまでに変わってしまうというのは背筋が寒くなる思いが
します。
むかし小坂明子という、当時はまだ多分二十歳前だったと思
いますが、ピアノの弾き語りで歌い上げた”あなた”という曲
が大ヒットしたのを思いだします。
♫
もしも私が家を建てたなら
小さな家を建てたでしょう
大きな窓と小さなドアと
部屋には古い暖炉があるのよ
・・・・・・・
私の横には、あなた、あなた
あなたがいてほしい
♫
うら若い女性の結婚(新婚)生活への憧れが切々と歌い上げ
られます。当時の同じ年代の、あるいはもう結婚している女
性の結婚への、多分果たせない?思いがいっぱいに詰まって
いたのでしょう。
明治時代の乙女たちにも無論同じようなロマンチックな思い
はあったのだと思いますが、彼女たちにとって恋愛と結婚と
は全く別物だったのです。
恋愛はあくまで異性にへのほのかな憧れにとどまり、それ以
上には決してならなかったし、なってはいけなかったのです。
よほど強烈な個性を持った女性でなければ不可能なことでし
た。
私の亡き母の母親と父親、つまり私のおばあちゃんとおじい
ちゃんはそんな数少ない例外の一つでした。
母は私によく目を輝かせながら話をしてくれました。
二人とも母が幼い時に亡くなったので、会ったこともないし
明治か大正時代の時代の初めのことですから写真も残ってい
ません。とても残念です。どんなおじいちゃん、おばあちゃ
んだったのだろう、一目でもいいから会いたかったなあと
切実に思います。
でも、そんな両親から生まれた母の結婚はお見合いすらなし
父の写真らしきものを見ただけで、佐賀県の呼子という小さ
な港町から、父の赴任先だった(特務機関員でした)中国の
上海へ、ナント単身で、はるばる東シナ海を渡ってお嫁に行
ったのです。
でもそれくらいはいいほうだったのでしょう。愛情があった
かのかなかったのかは知る由もありませんが、二人っきりの
新婚生活があったのは事実でしたから。
当時は二人っきりの新婚生活なんて夢のまた夢だったのです。
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