経済的な問題、精神的な問題、学歴、背丈、要望、性格、
家族関係、居住地域、、、、そんなメリットとデメリット
を秤にかけると、なかなかメリットの方に傾かない。
それでなんとなく、三十歳代になり、四十歳代になると
今度は子供ができるかとか、年老いた親の扶養とかの問題
も加わってきて、二進も三進もいかなくなる。それでもま
だ妥協を知らない人が多すぎるような気がします。
私たちから見て結婚を決断するにおいて最も大切なことは
と言うと、そんなことじゃないと思います。
「結婚しない症候群」という時に、頭の中を巡っているもの
とは一体どのようなものなのでしょう。
私たちはどうも小学校に入学すると同時に、冷ややかに自分
の人生というものを見つめる習慣がつき始めるような気がし
ます。何の苦労もない日々が人生の終わりまで続くような、
そんなプランを手のひらにしっかりと握りしめている。
プラン通りにスンナリと生きていけるなら、無論それはそれ
で素敵なことかもしれません。しかし言い古された言い方
かもしれませんが、そうは問屋がおろさない。予見可能性通
りに人生設計を立てたつもりでも、形を変え品を変えて、
まるで不意打ちみたいに思いがけない災難が襲ってきます
(私自身の若い時がそうでしたのでなおさらそう思います)。
世界は別にあなたや私のためにあるわけじゃありません。
まあ、当たり前の話ではあるんですが、ついついそんな簡単
なことさえ忘れてしまうのが、ある意味において人間という
ものの限界なのかもしれませんが、、、。
だから嫌なことは、望まなくてもそれとは無関係に向こう
の方からやってくるし、しかもそのやってくる確率は決して
変わりません。
自分では決められない。ならばどうするのか?
ということでそれが少しづつ自分の人としての尊い知恵と
なって積み重ねていくのだと思います。
正直なところ、人はこんなにも選べないものかとウンザリ
することってあります。
虫けらのように負けまくる。愛する人が去り、または死ん
でゆく。愛する人と生涯を共にしたいと念じても、相手が
同じように思うとは限らない。
また愛する人と一緒になっても、人は年々歳々変貌してゆ
く。あなたの夫や妻はあなたのためだけに生きているわけ
でないのだから、それは仕方のないことです。
彼や彼女にはずっと一緒にいても、計り知れない過去があ
りその延長としての物語がある。それでも生きていかなく
てはならない。
人生には自分で決められないものがあって、それだけは
どうしようもないものであるならば、その他のことについ
てはきっぱりと自分の思うようにすればいいのだと思い
ます。
エンゼルス球団のジョー・マドン監督の言うように、
あなたのハートビート(心臓の鼓動、生命)にしっかり耳を
傾ければいいのだと思います。
それはあなたの本質であり個性です。ハートビートはみんな
異なります。状況もみんな異なります。
だから表面的なサンプルだけで人生を考えるのではなく、
あなた自身のトレンドを信じて、あなた自身のパズルを組
み立てていけばいいのだと思います。
他の人たちの経験から算出した統計や数字に頼りすぎる人
は一見すると前向きに見えますが、その実とても脆い。
考えすぎて、大切なハートビートがどこかに行ってしまう。
人を心から愛することできなくなってしまう。結婚するこ
とへのメリットやデメリットに目が奪われてしまうと、
「竹の柱に萱(かや)の屋根、手鍋提げても厭(いと)
やせぬ」
なんて行動は出てきようがない。”惚れる”という感情が二
の次三の次になってしまいがちです。これってすごく悲し
い寂しいことだと思いませんか?
これは「結婚しない症候群」というより「愛さない症候
群」あるいは「愛せない症候群」と言った方がいいような
気がします。人間的な感情にいつもヴェールがかかっている。
人を心底から愛し、苦しんだことのない人が本当の意味で
ハッピーだとは私たちにはどうしても思えないのです。
現代の日本は世界に冠たる老齢化社会だと言われています。
スーパーに買い物なんかに行くと、レジの前にはびっくり
するくらいご老人の顔々々が行列を作っています。
そしてほんの少数の素敵なムードを漂わせている、輝く
ような銀色のシルバー世代と、多くのそうでないシルバー
世代がいます。
この(大きすぎるような)違いは何なんだろうかとよく頭
を傾げたくなるものです。
あるブログで若いセラピーの女性の記事が目に留まり
ました。ショッピングモールで偶然であったできごととか。
まだ若いお母さんが赤ん坊を抱いて、もう一人五歳位の男
の子を連れていた。
男の子の方がぐずり始めた。お母さんがいってきかせても
ひどくなるばかり。とうとう堪忍袋の緒が切れた。
モール中に響くような大声で、
”いい加減にしなさい!!”
とばかりに平手打ちを一発ばしーん!!
一瞬モール中がこわばった。幼児虐待じゃん、通報しない
でいいかな、、、、、
そのときである、ひとりのお婆ちゃんがさりげなく近寄っ
ていったのです。お母さんを怒るかと思いきや、
「まあまあ、お母さんも大変やねえ、赤ちゃんが生まれて
ろくに夜も寝てないんでしょう」。
今度は男の子の頭をなでて、
「ぼく、よく泣いたねえ、偉い偉い!赤ちゃんが生まれてか
らずっと我慢しなさいと言われてきたのよねえ」。
「お母さんもぼくも、偉い偉い」
と二人の頭をなでて去っていった。お母さんは、というと
男の子を抱きしめて泣いた。
わ〜わ〜と、男の子以上に大声で当たりをはばからず。
それを見ていた一人がお母さんにテイッシュを渡した。
女性セラピーは見ていただけ。彼女は、そういうトラブルに
は原則無関心を決め込んでいた自分を恥じる前に激しく嫉
妬している自分に気づきました。
自分にはあんなに、他人のできごとにさりげなく関わるこ
となんてできない。
しかし他人事を他人として割り切るのは間違っていると気
づくのです。今度そういう場面に出会ったら、、、
しかし、多分あのお婆ちゃんのようにはできないだろう。
お婆ちゃんにとっては当たり前のふるまいでしかなかった。
そういうふうに決心したのはもちろんいいことだが、
意識してするのと、意識してしないでするのとの間には目に
見えない懸隔が有る。それは何か、といえば”体験”である。
同じ言葉をかければいいというものではない。お母さんが
泣いたのは、
言葉そのものではなく、言外にある体験からきた目に見え
ないあたたかい想いに身も心もつつまれたからであろう。
そんなおばあちゃんって随分少なくなってきたような気が
するのです。
どうしてなんだろうとよく考えてしまうのですが、あなたは
どうでしょうね?
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