<就活、終活、そして婚活>
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就活、終活、そして婚活、、、、、
人生における三つの「活」。人生の別れ道、
右を選ぶか左をか?安定を、冒険を?
つつましやかにルーテインで、刺激的に、ロマンを?
しかし、就活と婚活の「活」はよろしいとしても、
終活の「活」はチョッと合点がいきません。
便乗値上げならぬ、便乗商法。人生の「終」わりに、
「活」動というフレーズを引っかけるのはどうも。
コジツケ?下心?造語ミス?おシラケ。
素晴らしいあなたの人生の、最後にふさわしい棺桶と
墓場が待ってます、なんて、、、。
まして、どちらを選ぶ?なんて言われても、、、。
しかしです、
この三つの「活」が三位一体となるところから、まさに、
むつみ会結婚相談所は始まったんだ、
なんて言ったら、みなさん、びっくりなされるでしょうが、
実際その通り。
当時六十八歳の父と五十七歳の母の、初老の二人にとって
就活と終活と婚活はこの上ないコラボレーションでした。
まあ、例えて言えば、
キャンデイーズと、モーニング娘と、ももいろクローバ
ー共演のステージみたいなものですか。
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<桜咲く街に結婚相談所>
昭和四十四年春、今は桜町バスターミナルとして衣替えし
た、旧熊本交通センターから徒歩で五分、熊本放送局正面
玄関前のビルの二階の一室で、むつみ会結婚相談所は、
おぼつかない第一歩を踏み出したのです。
”おぼつかない”というのは、日本列島どこを見渡しても、
当時、結婚相談所なるものは存在しなかったからです。
そう、どこにも。
それらしいものはトーキョーにあるにはありました。
「日高パーテイー」といって、大学教授だった日高さんとい
う方が始めた、今で言う所の出会い系パーテイーみたいな
ものです。
ただし、参加者はなぜか熟年の独身者ばかり。
時あたかも、戦後のベビーブーム世代が適齢期に差し掛かっ
た頃。うら若き未婚の男女が満開の桜のように咲き乱れて
いました。
そして、結婚予備軍の男女が街角にそこかしこと可愛い桜
の蕾をのぞかせていました。
お茶やお花、料理とか着付け、裁縫などの教室は、花嫁
(花婿もいました)修行の拠点となって繁盛しました。
立ち居振る舞いとか家庭料理、和服の着付け、縫い針などな
ど、結婚して恥をかかないための心得を身につけるためです。
女性も自立した女性を目指し高等教育を受けている今日とは
隔世の時代がそこにはありました。
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<結婚は大抵お見合いでした>
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結婚はたいていの場合お見合いでした。ご近所には、お世話
好きのオバさんがいましたし、職場の上司とか、学校の先輩
とかの仲立ちで、次から次とカップルが誕生していきました。
結婚とホカホカのカップルの量産時代です。
「お見合い」というのは本来、男女の出会いの場というより、
結婚を前提とした一種の儀式のようなものでした。
写真館で撮影した晴れ着のポートレートをお互いに見合った
時点で、ほぼ婚約から結婚式というレールの上に乗っかった
ようなものでした。
あんな人はイヤとか、こんな人がいいとかばかり言っている
と、ワガママだとか、お高くとまってる、などという噂が
広がって、縁談がプッツリ途切れてしまうのが普通でした。
そうなったら自力でロマンスを探し当てるしかないのです。
今からすれば随分と乱暴な話ですが、それなりに何十年と
連れ添ううちにお似合いの夫婦、子どもたちの善良な父親
母親となっていくのですから、本当に縁というのはわからな
いものですね。
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<草分時代の結婚相談所>
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でもそういったお見合いモデルが崩れ始めた、丁度過渡期に
結婚相談所なるものを、思い立ち、かつ即実行に移した、
明治生まれと大正生まれの初老夫婦がいたわけです。
即決先行で始めたはいいが、それってなあに?と誰もかれも
が首を傾げたのは無理もないことでした。
パソコンが普及する三十年以上も前に、インターネットと
言っても、それってネットのないテニスとかピンポンみたい
なもん?ってなものです。
もしもその頃インターネットがあれば、結婚相談をアンター
ネットと命名すれば解りやすかったかも。
まあ、なんであれ、結婚相談って身の上相談とか占いの延長
みたいなものかな?なんて勘違いする人もいました。
だから、マイナーどころか業務の内容を説明し、理解しても
らうだけでも大変だったのです。
そのようなトンデモナイものをなぜあえて始める気になった
のか?ただの新し物がりやで片付けるには無謀すぎます。
ごく一般論として、人間というのは、人生のゴールが仄か
に見え始めると、好々爺好々婆然となるか、あるいはくす
ぶり続けてきた熾火に火がつくか。
後者の例は少数でしょうが、そのわずかな例の典型的なタイ
プでした。家庭を築き、子どもが生まれ、育つということは
かけがえのない喜びであると同時に、ままならない人生を
意味することもあるのでしょう。
四人の子どもたちが曲がりなりにも一人立ちした時、今は
亡き父と母の胸に勃然として湧き上がった思いとは何であ
ったのか?
年齢を重ねて、父母の境涯に立ち至った今となれば、そん
な気持ちというのが、自分自身の問題として分かるような気
がするのです。
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<結婚相談が天職だった?>
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母がその頃よく口にしていたこと、、、それは、
「これが私の最後の天職のような気がする」。
天職とは何か、というと、天から与えられ、天に返す仕事。
あるいは、人から与えられ、人に返す仕事と言ってもよい
でしょう。
ただ自分の暮らしの糧だけを得るためにアクセクと働くのは
仕方がないこととはいえ、空しいものです。
人生の終わりが来る前に、両掌にこれはというものをしっか
りと掴んで、悔いなく一生を終えたい。
あなたはいかがでしょうか?
来し方をつくづくと振り返った時、どんな思いが去来するで
しょう。そこに疑いや悔悟の影すらもない人というのは、
余程幸運に恵まれた人だと思います。
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またこうも言ってました。
「今はちっぽけな一粒の種だといって、バカにしちゃいけ
ない。何にしてもそんなちっぽけな、一見したところ取るに
足りないたった一粒の種から生まれるし、それなしでは何一
つ生まれない。
百年経ってごらん、ひと粒の種が林となり、森となっている
かもしれない。つまり私たちが生きているこの世界となっ
ている。
日本が世界でも稀な、森と水に恵まれた国になったのは、何
百年も前の人たちが、自分たちが死んだ後、この国が豊かな
土地になっているのを願って、キツイ労働と貧しい暮らしを
潔く受け止めて、せっせと種を植えたからだと思う」。
多分今の世の中が、離婚が、家庭内暴力が増え、人々の心が
荒んでいるのは、つまりは場当たり的に、自分の目先の利益
ばかりを考えて、百年後の人のことを思わなかった人々がい
なかったからだと思います。
そこのところでどうやら、父と母にとって、自分の人生の
ゴールである終活と、若い人たちの人生のスタートである
婚活とが、この結婚相談という就活で合流し、意気投合した
のではないかと思うのです。
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<結婚相談というスピリット>
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それから、いつのまにやら半世紀余、父も母も彼岸の人と
なりましたが、何の因果か私たち夫婦がバトンを受け取っ
て今日に至っています。
つれづれに半世紀の歳月を省みますと、今まで千組をはる
かに超えるカップルが誕生した勘定になります。
まだ高度経済成長の余韻が色濃く残る頃、あの熊本交通セ
ンターのほど近いわずか八坪のつつましいオフィスから
いつのまにか一つの町ができるくらいの出逢いが生まれ、
巣立ちがあったのは紛れもない事実なのです。
数知れない家族の物語が紡がれ、旅人たちのために新しい
歴史が用意され、繰り広げられ、伝承されていったのです。
白紙のままだったかもしれない、それら人生の1ページに鮮
烈な墨痕が滲んだのは何故なのだろう?と考えることがあ
ります。
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それは、命というもののある種の本能的な衝動みたいなもの
ではないか。
種の保存というのは、自分の血脈を残すことで満たされます
が、もっと大きな意味があるようにも思われます。
夜空を見上げますと無数の星が散らばっています。あれらの
星屑の一つに辿り着くためには、私たちはそれこそ何万回、
いやもっと生まれ変わっても足りません。
人の一生なんてそれに比べると一瞬の火花のようなものでし
ょう。でも考えてみれば、星の命だって同じようなものです。
次から次へと生まれては消えていく。そんな星という名の存
在の塊が星座となって私たちの視界に入ってくるのです。
そんな星の群れと、太陽系の端っこの地球という惑星に生き
ている私たちとは、思えば同じエネルギー、同じ波長によっ
て存在しています。
そうやって死というものが身近になってくるにつれ、人は
何かそんな宇宙的なものと同期しようとするのではないか
なんて思ったりします。
生まれるのも死ぬのも同じことかもしれないなんて、ふと
感じたりするのです。ロマンというのはそうして生まれる
のではないかと思ったりするのです。
父も母も中国大陸の上海からの引揚者です。そのせいでしょ
うか、戦後の日本という国の世知辛い世の中は生きづらさを
覚えていました。
そういう人生の最後に人生のロマンらしきものを見出そうと
したのかもしれない。
それがむつみ会結婚相談所であり、ひょっとすると、思い
もかけず、半世紀以上も続いている隠された理由なのかも
しれません。
ちなみに、むつみ会結婚相談所のオフィスは、入り口の
扉から、内装まで大正ロマンふうに統一されています。
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