「学校1」はクロちゃん学級の八名のクラスメートのプレ
ゼンテーションを前半部分にして、やがて五十歳代の同級
生イノさんの生と死をめぐる展開へとなだれ込んでいく。
井上某という実在の人物をモデルにしたストーリーらしい。
そんな着眼がこの物語の核になっていることに、時ととも
に観客は感付き始める。
不遇を絵に描いたような人生。
小学校もロクに出ていない初老の男が、夜間中学で始めて
心が通じ合う仲間と出会い、学ぶ喜びを満喫する。
しかし彼の悲しすぎる人生は、その肉体深く蝕んでいた。
そして卒業を目前にして儚い命を閉じるのだ。
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山田洋次監督はこの切ない物語を、お涙頂戴では流したく
なかった。それでハイライトはホームルームでのディベー
トととなる。
テーマは「幸福」について。
イノさんは果たして本当に不幸だったのか、それとも?
自分自身の人生に照らし合わせながら、ひとりづつ答えを
探してゆく。
これは誰にとってもとても難しい問題。
勉強ができるからといって解けるでもなく、
年齢を重ねたから、知性なるものがあるから解けるもので
もない。
多分生と死の問題が、一度死んでみなけりゃトンとわから
ないように、生きてる間は永遠の謎々なのかもしれない。
だから一人一人が手探りで近づいていくしかない。
だが他方で一生をかけてわざわざ遠のいていく人だって
いる、ってよりだんだんそんな人だらけになってきたような。
残念ながら、この物語はどうやら、そんな人だらけのもの
ではないようだ。
それではディベートの様子を眺めてみましょうね。
``
重労働をしながら通学しているカズは、
あんな惨めな人生が幸福だったはずがない。
かりそめの幸福感があったとしたら、そのこと自体が悲し
すぎるだろう。もっと世の中を恨めよ、
という。
焼肉店を経営して、子どもを育て上げ、イノさんと同じよう
に五十歳を過ぎて入学した、在日朝鮮人の女性、オモニは
いう。
不幸でない人生なんてない、ならば自分が幸福だと思えば、
それでいい。イノさんは幸せだったし、自分だってそうだ。
じゃあ、そう思えればいいということは、幸福も不幸も
錯覚なの?
という反論が当然のように出てくる。
人生とは単なる錯覚なのか?こうも不幸も。
確かにそうなのかもしれない。
ここで教室に一旦沈黙が訪れる。
それを破ったのが、少年院出の非行少女だったみどり。
学校に戻れば、先公はよってたかって犯罪人扱いだし、
家にもどればアル中の父親だ。
自暴自棄になったみどりは、シンナーをやり身体をぼろぼ
ろにして、恐喝や売春やればどうにか生きていけるし、
そんなもんだとしょんぼり夜間中学の校門の電柱に座り込ん
でいたところに、
「どうしたの?この中学に入りたいの?」
と優しく声をかけてくれたのが・・・・
「このくろちゃんだったんですけど・・・」
と涙なんか見せたこともないみどりが涙ぼろぼろで、
担任の黒井先生(西田敏行が好演)を指さす。
その時こんな私でも幸福になれるかもしれない、
と思ったんだよ。
あたたかな眼差しは陽射しのようなもんで、氷のようなかた
くなな心を溶かす、一瞬にして。
くっちゃべるなよ、ねえ、そんな時はさ。
オサム、君はどう思う?くろチャンこと、黒井先生はたずねる。
知能障害のオサムは少し考えて
「幸福って、・・・・やっぱりお金かな・・・」
失笑が洩れる。
黒井先生はオサムを庇うようにいう。
「いやいや、おかしくはないよ。そうだよ、お金は大切だよ、
オモニだっていつもいってるだろう、お金さえあればなあって」
そりゃそうだ、皆幸福はお金で買えるなんて平気で思ってい
る時代だから。
しかし、誰よりも貧しい境涯にある彼らに、そうじゃないよ
とい言わせているのはなにだろう?
単なる負け惜しみ・・・?まさかね。
じゃあ、なあんだ?と問いかけたまんまエンドロールとなる。
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