自分の可愛い娘が年頃になって嫁に出す。
自分の息子がいつの間にか一丁前になって結婚したい
娘がいるなんていいだす。
そして孫が生まれて、はいはいからよちよち、そらもう
目の中に入れても可愛いとしかたとえようがない。
ふと我が身をふりかえるともういくばくもない命だ。
妻だって同じようなもんだ。
そんなとき今はない父母の写真なんか見ると、胸に
どうしようもなくこみあげてくるものがある。
我が子に想い出が一杯詰まっているように、父母にも
一杯一杯詰まってたんだよな、なんて当たり前の事を
思ったりする。
そんな物語のはじめとおわりに死と生がある。親の死
を見送り、自分たち夫婦の子とその子の愛する女性の
あいだに誕生した命を見守る。
そんなこんなの節目々々の数の大きさが,初めて人生
というものを実感させてくれるような気がする。
人間生きるだけで一大事なんだ。後はオマケだ,カネも
名誉もいらねえ、という、ナントもカントもドラマレスな
言葉が深く心に突き刺さる。
やりたい事のひとつもできなかった人生だったし、碌な
事しかできなかった人生でもあったし、生き方は自分で
選べないんだと痛感した人生でもあった。
正直なところ自分の好きな生き方が選べないものなら、
せめて死ぬときくらいかっこ良くさせてくれよってなも
んだ。でもね考えてみりゃ後十年くらいは生きられる、
そして好きに生きられる境遇に,今現在ハッタと気づい
たってえ、お粗末な話だ。
それで自分の中で「決心」したってわけ。夢と寿命とど
っちが先にくたばるか競争するかって。
若いとき一度決心して、半ば成功して結局は海の藻くずと
消えた。今回は五年は五年でも七十歳という年の功からの
十年だ。面白い事してみせようぜ。どうせ人生そのものが
もうほとんど海の藻くずなんだから、怖いもの無しだ。
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