五十歳の同窓会「みんなでなれば怖くない」
六十歳の同窓会「みんなでなりたくねえ」
七十歳の同窓会「どうでもいいや」
八十歳の同窓会「アンタだあれ?」
九十歳の同窓会「アタシってだあれ?」
百歳の同窓会 「みんなでなるのムリだよね」
、
長寿社会なんていってるけれども、ホントのところは
延寿(命)社会なんですよね。
無理やりっていうか、不自然に死期を先延ばしにしてる
ような気がします。まわりだってうんざりでしょうに。
生き方が不自然だと死に方も不自然になるのでしょうか?
昔の遺体は例外なく枯れ木のようでしたので、自ずと
ナンマンダブって呟きたくなりましたけど、昨今の
遺体は水ぶくれのようになってて、かえって痛々しい印
象を受けます。
だいたいが人間の肉体は還暦も過ぎると方々が賞味期限
切れ気味になりますので、ちょっとした(若い時にはな
んともなかった)差し障りでくたばります。
食への欲が細り、ほぼ4、5日で水分をも受け付けなく
なり、脱水症状で意識が薄くなっていきます。
頭に霧がかかるってより、晴れていく感じですね。暗く
なるってのは骨壺に入れられることからの連想でしょう。
網膜に入ってくるのはデータで、それを映像にするのは
頭(意識か無意識?)の働きですから、光にするか闇に
するかの選択権はあなたにあります、多分。
それに、思い出は過去よりも未来にたくさん待ち受けて
いることを私たちは忘れているような気がします。
ネイテイブ・ハワイアンは亡くなった人は風になると信
じているので散骨をします。だから闇にでなく光に帰り
ます。肉体から開放されて自然に帰るということなのでし
ょう。自然に帰ると森羅万象の命は一つになります。
ですから、送別会じゃなくて同窓会のようなものなので
しょう。
みんなでなれば、楽しい嬉しい素敵な同窓会💓。
少なくとも僕にはそんなのが理想の終わり方です。
だってね、とっても気持ちがいいんですよ(経験上)。
モルヒネなんか射ってもらわなくってもね。
長生きしてもケッコーだけど、延寿じゃなくて長寿じゃ
ないと嫌ですねえ。お墓じゃなくて風になりたい。
亡母の通夜の時は若い人たちがワンサカ集まって、酒を飲
んで、ギターを弾いて歌を歌って大騒ぎでした。それが母
の遺言でしたから。弔問のお客がご愁傷様というのが場違
いで面食らっていましたっけ。大きないのちと小さないのち
があって、私たちが知っているのは後者で、大きないのち
は時をこえ空間をこえてつながっているのだと思います。
ひとは信じたいことだけ信じたがります。信じることは無
論悪いことではないのですが、半面で信じないことは存在
しないことになるのはいただけません。
本当に信じられるものとは何なのか、というあてどない問
いかけが僕たちには必要なのだと思うのです。
