「ホモ・サピエンス」というのは、まあ、「考える人」
でしょうかね。「ホモ・ファーベル」というのは、
「作る人」。
昔からいろんな人がてんでに勝手なことを言ってきました。
人間って、いったいどういう生き物で、何が楽しくて生き
てるんだろうという謎々に対する答え当てのようなもので
しょうか?
僕たちが歴史の時間に教えられたのは、
人間というのは「ホモ・サピエンス」つまり考える生き物
ということでした。
人間だけが考える、サルやチンパンジーはもちろん、木とか
花は考えない。こうやって下手くそな文章を書くこともしな
い。最高に進化した生き物である人間だけが、学校に行き、
仕事をし、どうでもいいことで悩んだり悲しんだり、たまに
は喜んだりもする。
そして誰よりもホモ・サピエンスふうな人が尊敬される、
ってなことにもなります。その逆にホモ・サピエンスらしか
らぬ人はいろんな意味で落ちこぼれということになります。
でもホントにホントにそうなのでしょうかねえ。どうも
そういう思い込みを抜きにして、周囲のいろんな人や出来事
を眺めていると、首をひねりたくなることが多いような気が
します。
バカにつける薬はない、なんて言いますが、どうも利巧につ
ける薬はないというのもいえるような気がします。
経済先進国になればなるほど、みんながガッコーに行くよう
になり、挙げ句の果てには、それこそ猫も杓子も学卒という
ことになります。(中身があるかどうかは別にして)
そしてそれを文明的なんて言ってしまうわけですが、
どうなんでしょう。
フランスの大臣がとある南洋の島を視察旅行しました。ささ
やかだけど、心のこもった歓迎会のあと演説がありました。
「私たちの国には文化が一杯ある。自動車にTVに冷蔵庫にエ
アコン・・・ないものはない。だが見た所ここにはなにもな
いようだ」
それを聞いた酋長はい言いました。
「真っ青な海には無数の魚が泳ぎ、陸にのぼれば森に枝もた
わわにバナナがなっている。あなたのお国ではそういうもの
は文化とは言わないのですか?」
ぐうの音もでなかったらまだしもですが、そうはならなかっ
たでしょう。骨の髄まで”文化人”になってしまうとです。
さてともう一つのお話、、、、
フランス人冒険家が極北を旅して、イヌイットの家族に一宿
一飯にあずかりました。
夜長の徒然に彼は故国で当時流行のシンデレラ物語を自慢げ
に語って聞かせました。でも、
それを聞いたイヌイットのお父さんとお母さんはそれはそれ
はビックリしました。素敵なお話だったからではありません。
まさか、かの国ではこんな話を子どもたちに聞かせているの
だろうか?トンデモナイことだ。どんな大人が育つのだろう
と心配しました。
僕たちが知っているシンデレラは実はパクリなのです。元ネタ
は神話の世界の地球的ベストセラーです。わかっているだけ
で世界中に600くらいあります。もちろん語り口は様々で
すが、言おうとしてることは同じです。
昔々からお父さんやお母さんが子ども達に暖炉や焚き火の
前で、あるいは月の光の下で語って聞かせたのでした。
あるところに狩りの名人と言われる若者がいました。そ
れで、大勢の若い女性たちが精一杯着飾って若者の気を惹こ
うとしましたが、若者は見向きもしません。ある時若者は
森の中で若い女性と出会いました。その女性は今まで会っ
たなかでは一番汚れた格好をしていましたが、眼差しがと
ても澄んでいました。若者は一目見ただけで、その女性に惹
かれ、結婚を申し込みました。
、、、というお話がご存知のようなシンデレラ物語になった
わけです。近代の黎明期に、フランス宮廷で皇太子用に編纂
され、さらに後年、デイズニーがアニメ制作の為に書き下ろし、
現在のシンデレラ物語が出来上がりました。
不遇な少女が、女性たちの憧れの男性と結ばれるというハッ
ピーエンドは変わらりません。
でも、このデイズニーモデルはイヌイットたちにとって堪え
難いものでした。
第一に、王子という虚名に群がる若い女性像という設定が,
第二に、王子の妃選びの夜会が、オシャレを競うファッショ
ンショーみたいだった。
第三に、王子が選ぶのが最も美しいドレス姿のシンデレラ
であったこと。
そこでは終始、精神的価値というものが全くといっていいほ
ど無視されていました。それがイヌイットたちの眼には、許
されない人間冒瀆と映ったのです。
婚活中の今の女性にとっても、男性にとってもかなり耳の痛
い話ではありませんか?
(続く)
