「天上天下唯我独尊」
という言葉があります。どうやらお釈迦様がおっしゃった
らしい。
それは自己チューという意味ではなくて、天上天下にい
きとしいけるもの一つ残らずなくてはならない尊いもので
あるということです。また、
真の自尊心とは、他人を故なく貶めることで成り立つよう
なものではなく、むしろ人を貶めれば貶めるほど自分の心
を傷つけ、自分を見失ってしまうものなのだとおっしゃっ
ているわけでもあります。
今の世の中を格差社会などと言っていますが、人間ひとり
ひとりの値打ちには本来優劣の差などない。特定の物差し
で測ればそうなるだけの話なのでしょう。
世の中は、各人が受け取り、各人が与えることで成り立っ
ているようです。
私には何も与えるものなんてない、なんて、もし思ってい
るのだとしたら、それは勘違いというものです。知識もな
いし、力仕事は無理だし、おまけにビンボーだし、、、、
でも何か必ず与えるものが一つや二つはあるはずです。
それで十分です。いや、人間というものはそういうものでは
ないのでしょうか?
人は各人が自分の持っているものを与えます。知識のある
人は知識を、力のある人は力を、お金のある人はお金を与
えることで初めて世の中は成り立つものだと思います。
もし、、、「じゃあお前たち貧乏人は何を与えるんだ?」
と言われたらこう答えてください、そう、胸を張って。
「はい、私たちは与えることと受け取ることは一つである
という喜びを与えることができます」。きれいごとだと思
う人もあるかもしれませんが、それがお釈迦様が世の中の
人たちに訴えたかったことだと思います。現に世界で最も
幸せな国と言われるトンガやブータンの人たちがいつもニ
コニコしているのは、それが当たり前になっているからだ
と思われます。
そもそもお金持ちは持っているものを与えないからお金持
ちであるに過ぎないのです。さらに言えば、
今の世の中はお金持ちが受け取り、貧乏人が与えることで
成り立っているのだとも言えるでしょう。
もしもあなたが自信を失っているのだとしたら、それはす
なわち自分自身の本当の姿を見失っているからなのでしょ
う。”何は無くとも心の錦。どんな花より綺麗だぜ”という
歌が確か昔あったような気がしますが、そうやって何はと
もあれ胸を張って生きている人は周りの人に忘れていた何
かを思い出させます。
何もかも揃っていて無闇に胸を反り返している人は何だか
傲慢で不愉快で鼻持ちならないものですが、何はなくとも
心の中にピカリと輝くものを持っている人には、そうい
う人たちにはない秘められた魔力があるようです。
実際今までそんな人たちを何人も見てきました。そうい
う風に心の丈が大きい人は、要するに今が何もないだけで
いつまでもということはありません。人を惹きつける力が
あるので、周りがほっとかないのです。
異性だって例外ではありません。いわゆるモテる男性や女
性の、それが一つの典型となっているのは見逃せません。
心の琴線を震わせる何かを身につけている人。そういうオ
ーラは異性の胸をとろけさせるものです。
そしてそれは現在ただいまの状況如何にかかわらず、誰に
でも備わっている可能性です。つまりあなたにもです。
どうかそのことを忘れないでください。まずはそこからあ
なたのかけがえのないこれからの人生の第一歩を踏み出し
てもらいたいなと思います。
それにしても、いつからなのでしょう?あの、、、
レトリックとかマニュアルとかエコノミックポリシーとか
カリスマとか標準化アプローチやブラックボックスとか、
訳の分からん小理屈で、なんやらかやら世の中が面白く
なくなってしまったしまったのは。いつからでしょう?
ひとをみんな、”どこそこのだれそれ”にしてしまい、限り
なく豊かな自然を、わざわざ四角四面にくぎって、自由闊
達にして自在な、まっさらな空間を囲い込み、いのちをつ
まらないひとくくりにしてしまったのは・・・・・・。
東大生を輩(排?)出することで有名な予備校のカリスマ
講師、ハヤシナントカ氏はその秘訣をこう説明しています。
「類比・類似・因果」で知識を整理せよ、と。
まあ確かに知識というものは抽出しをたくさん持てば持つ
ほど身につきます。でも知識があればそれでいいというも
のではありません。知識はあっても教養がない人はたくさ
んいます。逆に知識はないが教養がある人もたくさんいま
す。それとこれとは多分別の問題なのです。
明治生まれの世界的天才数学者、故岡潔(おか・きよし)
さんはさすがにそんな野暮なことはいいませんでした。
岡さんいわく、
人間の真ん中を通っているのは、「自然」であると。
才能とは自然との回路なのだと。自然の叡智に敵うものな
どないのだと。
この自然の叡智は自分らしさを大切にしている素直な懐の
深い人に宿るものだと思うのです。
