映画監督の大林宣彦さんによると、ヒトにあるように
「土地」にもしわ(皺)がある。
しわがない土地とは何か、、、、、、。
それは無機質なただのひろがりでしかない。
アメリカという国がそうであり、日本という国も急ぎ
足で、いや世界中がそうなりつつある。
杜があり、川があり、段々畑があり、神社がある。
それぞれが語り継がれた物語を秘めている。
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歳を重ねるとともに、額にも目尻にも今までなかった
しわが刻まれる。肉体が老化するにつれ、皮膚にハリが
なくなったゆえの生理現象なのだからしようがない。
皮膚の下にはまた、衰えた筋肉やら内臓やら骨格やらが
あり、コロナウイルスの恰好の標的ともなるわけだ。
だが目に見える身体とともに、もう一つ不可視のファク
ターが人間にはあって、その二つの密接な相互作用の上
に生命なるものは成り立っている。
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もう一つのファクターを僕たちは「心」なんて名をつけ
たが、正直言ってそのなんたるかは謎のまた謎のままだ。
そんな謎に包まれたものはつい胡乱の一言で切り捨てて
しまいがちなのが私たちの普段の暮らしである。
科学は「ある」ものは証明できるが、「ない」ものは証
明できない。はっきり言って無力そのものである。
死後の世界がそうであるようにである。
というのがサイエンスの致命的な欠陥であると僕は思って
いる。
その結果として世の中から見えないものがなべてオミット
されるという習慣が出来上がってしまったのだが、、、。
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人間の心にも土地があり、風景がある。
表に現れた綺麗な花の足元深く伸びた根の容量は花弁の
比ではない。
根が張っていない樹木は立っていることさえできない。
その心という名の土地にしわがなくなって、ツルツルの表
面になってしまった。
襞がないから陰影もない。虚しさは知っていても、深い悲
哀は知らないから、
めくるめくような生きる喜びにも巡り会えない。
杜も川も段々畑も神社もないから、物語もない。
そう、ただの無機質な広がりに心がなっってしまった。
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和辻哲郎さんは・・・”風土抜きで人間は語れない”
といった。
そして今、
オギュンスタ・ベルクである。
・・・日本人における「風景の共感覚」、、、
花冷え、晩春、入梅、残暑、、、
風土抜きで日本人は語れない、と彼は説く。
心の中の土地を見失った日本人は、もう日本人ではない、
いや、人間でない別の生き物なのかもしれない、
なんて、時おり僕は思ってしまうのだ。
