元々ないものを求めるのを夢とは言わない。
当たり前だ。それをもって何というか、妄想
という。この三百年の間、人々はひたすらそ
んな妄想を追い続けてきた。
生きてることそのものが奇跡であって、そん
な奇跡を支えているホメオスタジス(恒常性
維持・homeostasis)をぶっ壊すような時代の
夢をいつまで見ているつもりか。
とうとう世界の終りが見えてきたというのに、
「資本主義の終わりを想像することは、世界
の終わりを想像するより難しい」とは・・・。
目を覆うような犠牲の上に、ただ茫々とした
廃墟が残った。
本来ある(べき)ものが見えることを夢という。
それは頭でも眼(近代西洋合理主義)でも見え
ない、心のみが感じることができる。そんな見
えない姿がしっかりと見えるのを「夢」という。
見えないものを見るのを夢というのだ。
「人とはどこからきて、何者で、どこへ行くの
か?」という声が雷鳴のように鳴り響いたとき、
ゴーギャン(ストリックランド・月と六ペンス)
は夢に目覚めた。夢から目覚めるのでなく、夢に
目覚めるのだ。
人間はAIの最適解を出す能力において遠く及ばぬ。
というより早晩、置いてけぼりを喰らうだろう。
技術、手法、理論の分野ではもう知識階級の出る
幕は奪い去られる。
そうなった時、人間とは何者であるかが真摯に問
われる。与えられた問題にオウム返しのように答
えを出すのではなく、その時その場において、ど
ういう未知の状況においても、問題そのものを発
掘する力だ。
そしてそれこそが人間本来の、天性の能力と言え
る。忘却の彼方になりつつある、とおといキャパ
シティー。
さて・・・・
人々は得てして老境の入口で嘆く、自らの不本意
だった人生を・・・。そんな人生の決算の空白を
埋め、足りない勘定を取り戻そうと足掻く。まる
で追うほどに遠ざかる自らの背中を求めるように。
明治生まれの父と大正生まれの母が、当時は殆ど
誰も見向きもしなかった、今でいう婚活サイトを
立ち上げたのは、父が七十、母が六十歳にもうす
ぐという頃である。それから五十年、丁度あの
「男はつらいよ」シリーズと同じ歳月を歩いてき
た。十二月には記念の五十作目「お帰り寅さん」
が劇場公開になる。だからという訳ではないが、
創業五十周年と、創業者である父母の追悼を兼ね
て、新聞に小さな広告を出すと、望外の反響があ
って些か驚いている。
母は八十四歳で斃れるまで、この仕事に並々なら
ぬ情熱を注ぎ、自分の天職だとうそぶいてやまな
かった。あの熱い思いは何だったのだろうと、最
近になってつくづくと思いを馳せる時がある。彼
女が口癖のように言っていたのが、
「始まりはたった一粒の種かもしれないが、それ
がやがて林になり、百年後には森になる。だから馬
鹿にしちゃいけない」。その言葉の通り、五十年で
千組以上のカップルが誕生した。
子どもが生まれ、孫の世代
になった。家庭が出来、村ができ、町となり、
一つの伝説が、生まれる。それは五十年前に
は存在しなかった世界だ。妻も入会したのが
縁で僕と家庭を築いた。今次男夫婦と一緒に
暮らしているが、五歳と二歳の孫がいる。静
かな住宅街であるこの界隈も老齢化が進み、
独り住まいの人やら、ご夫婦の侘び住いがや
けに多い。そのような中で我が家だけがなに
やら賑やかしく申し訳ないくらいである。
父の幾たびかの倒産で、母のそれまでの人
生は筆舌に尽くしがたい現実の生活との戦い
であった。そんな中で夢多き娘時代の想い出
を僕に語る時だけはとても幸せそうだった。
まさかこんな辛酸をなめることになろうとは
思いも寄らなかった。そう口に出しては言わ
なかったが、幼い僕の胸にも痛いほど伝わっ
てきたのを覚えている。そして四人の子ども
たちが成人した時切なくも思ったのだろう。
このままで為す術もなく老い朽ちていってい
いのかと。
何かをしたい、何か自分の生きた証になる
ようなものを残したい。その答えがこの「M
結婚相談室」だった。そしてそれは鮮やかす
ぎる正解だったと僕は思う。この仕事は良心
的になればなるほどしんどい。皆がシンデレ
ラの夢を見ようとするが、ガラスの靴は一つ
しかないからだ。夢からもれた人たちが生涯
非婚の増加という現実になっている。儲けよ
うと思えばチャンスはあったが、それを潔し
としなかった。あくまで結婚弱者の立場に立
ち続けた。それこそ母が最後に見ようとした
夢に他ならなかった。家族とは生命の和合と
根源であって、人間愛のかけがえのない出発
点なのである。

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